第54話「追い出された湯気」
朝、ゆのみんはテーブルの上で目を覚ました。
新しい家は、今日も静かだった。
窓から入る光は少し冷たく、部屋の空気には湯気の行き場がない。
母は、ほとんど眠れなかったようだった。
目の下に深い影をつくりながら、出勤の準備をしていた。
「……今日は帰りが遅くなるから」
声に温度がない。
湯気のない声。
お母さん……大丈夫かな……
◆夕方、壊れ始める温度
母が帰ってきたのは夜の九時すぎだった。
玄関の扉が勢いよく閉まり、部屋全体の温度がビリッと震えた。
「もうなんで……なんで私ばっかり……!」
手からバッグが落ち、床に散らばる書類。
泣きそうな顔でしゃがみ込む母。
ゆのみんはそっと湯気を出しながら近づいた。
「まぁまぁ、まずは一息いれよ――」
その瞬間、母の温度が一気に乱れた。
「一息なんてつけないわよ!! あなたには分からない!!」
ゆのみんの湯気がしゅんと縮んだ。
わたし……また、届かなかった……
◆ふと漏れる『家族の記憶』
母が泣き疲れ、静まり返った部屋で、ゆのみんはぽつりと呟いた。
「あのときの家庭……お父さんも……子どもも……みんなでごはん食べて……楽しく笑ってたなぁ……」
それは悪気のない、ただの思い出話で、ゆのみんも、母に思い出してほしかった。
しかし――母の心の奥に積もっていた疲れが、その一言に触れた瞬間、『パキッ……』と音を立てた。
「やめて!!」
「え……?」
「もう……その話はしないで……。あの頃に戻りたくなんか……ないから!!」
母の温度が、怒りと後悔と悲しみで渦を巻いた。
ゆのみんの湯気は耐えきれず、『カタカタ』と震えた。
ごめん……そんなつもりじゃ……
◆ついに来る『その瞬間』
母は震える手でゆのみんをつかんだ。
その手は、あたたかくない。
玄関まで歩く足取りもふらふらだった。
「……ごめんね、ゆのみん……でも……今の私には……あなたと向き合える余裕が……ないの……」
玄関が開かれた。
夜風が吹き込み、ゆのみんの湯気が揺れた。
そして――母は力なく、ゆのみんを外の地面に置いた。
『ドン』
扉が閉まった。
静寂。
街灯の下で、ゆのみんだけがぽつんと残された。
……………わたし……もう、いらなく、なっちゃった……?
湯気が弱まり、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
◆歩き出す、小さな足
しばらくうずくまり、ゆのみんはようやく顔を上げた。
夜の冷たい空気の中で、たったひとつだけ、温かい記憶が浮かんだ。
――〈ひとがま〉。
――陶じいの手のぬくもり。
――つぼるんの落ち着いた声。
――つぎっぴーの金線の笑い。
「……帰りたい。行きたい……みんなのところへ……」
『ぽて。ぽて』
小さな足が、夜道を踏みしめた。
冷たい地面でも、毎歩、わずかに湯気が揺れた。
わたし……結局、ひとりぼっちになっちゃった……
その湯気は弱かったけれど、確かに『帰る場所』に向かって進んでいた。
〈ひとがま〉の登り窯の火が、遠くの暗闇の向こうで、ふっとゆらめいた気がした。