第77話「マルタの願い」
手紙を読み終えたあとも、つぎっぴーはしばらく動けなかった。
金線はまだ震えており、春の光に揺れるその様は、まるで海にきらめく波のようだった。
ゆのみんがそっと寄り添う。
「つぎっぴー……大丈夫?」
「うん……でも、胸がいっぱいで……なんか、息がつまる……」
つぼるんが静かに言う。
「胸が苦しくなるほど『誰かに愛された』という証だよ」
つぎっぴーの金線が、少しだけ強く光った。
◆1.手紙の『隠された最後の一文』
若者が、少し迷いながら言った。
「……実は、手紙の裏に……マルタさんが最後に書いた言葉があるんです」
「え……?」
若者はそっと手紙を裏返した。
そこには、小さく震える字で――『最後に、もし願いが叶うのなら、あなたが生まれた里山も、わたしも見てみたかった。この海とあなたの生まれ故郷を、これからもつなげてほしい』という一文があった。
つぎっぴーは息を飲んだ。
「……マルタさん……」
「マルタさん、亡くなる前日に……ずっと海を見ながら言ってたんです。『あの子は世界に線をつないだんだよ』って」
ゆのみんの湯気が、やわらかく揺れた。
つぼるんはゆっくりと口を開いた。
「つぎっぴー……自分の意志を大事にするんだ」
◆2.迷いと老いの痛み
つぎっぴーは俯いた。
「でも……ぼく……もう昔みたいに遠くまで行けないし……体も前よりずっと弱いし……」
金線がかすかに曇った。
「歩くたびにギシギシいって……割れちゃうのが怖い……」
ゆのみんがそっと手を添えた。
「でも、それでも……『行きたい』って思ってるんだよね?」
つぎっぴーはしばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくりと顔を上げて言った。
「……うん……本当は……行きたい。あの海の匂いを……もう一度だけ嗅ぎたい。そして、日本と海外を、もう一度、つなぎたい」
◆3.旅立ちの準備が始まる
つぼるんが窯の奥へ向かい、古い麻布を三枚運んできた。
「つぎっぴー、これは昔、陶じいが旅に行くとき使っていた『包み』だよ。しっかりと器を守るための丈夫な布なんだ」
「若いころ、いっぱい旅してたんだね、陶じい……」
つぎっぴーはそっと布を触った。
「……やわらかい……あったかい……」
若者はバッグから小さな瓶を取り出した。
「これは、マルタさんが最後まで大切にしていた『海の砂』です。あなたに渡してくれと言われていました」
瓶の中の砂は、陽に照らされて金のように光っていた。
「マルタさん……本当に……ぼくを……」
金線が、涙のように波打った。
◆4.名のない器が鳴いた瞬間、決意は固まった
そのときだ。
中央に置かれた『名のない器』が、コトン……と深い音を立てた。
「……名のない器が……呼んでる?」
「いや……違う。これは『行っておいで』の音だ」
つぎっぴーの金線が、その音に応えるように明るく光った。
「すごく、怖いよ。正直、すごく。昔みたいに身軽じゃないし……歩けばギシギシいって、割れそうになるし」
ゆのみんは優しい湯気で寄り添う。
「うん、それでも……行きたいんだよね」
「……うん。『弱さを抱えたまま進む姿』を、悩んでいる人たちに見せたいんだ」
「きっとマルタさんが見た『光そのもののつぎっぴー』を、誰かに受け継いでいくときじゃないかな」
つぎっぴーの金線が震えた。
それは泣き笑いのように見えた。
「うん……渡したい。ぼくの『欠け』が、誰かを救うかもしれないから」
「大丈夫? 帰ってくるよね?」
「もちろん! 欠けても、ボロボロでも、『つながる場所』はここだよ!」
三人は笑った。
老いの笑いは静かで、深くて、あたたかかった。
つぎっぴーは布に包まれ、若者の手にそっと抱えられた。
「必ず……大事に、港町まで連れていきますので」
「ありがとう。君たちに会えて、本当によかった」
金線はやさしい光を放ち、ひとがま全体を照らした。
海へ向かう『最後の旅』を祝福するかのように。