第79話「訪れた若者」
午後のひとがまは、雨上がりの光に静かに包まれていた。
つぼるんは名のない器のそばで佇み、ゆっくり呼吸をしていた。
「……長い人生、私は何を残せただろうか」
そのとき――戸口に、控えめなノックの音が響いた。
『コツン……』
つぼるんが戸を開けると、スーツを着た若い男性が立っていた。
雨に濡れた髪が、気持ちの高ぶりを隠しきれていない。
「あの……こちらに『つぼるんさん』はいらっしゃいますか?」
「私がつぼるんですが、どうしたのでしょうか?」
若者は深く頭を下げた。
「母が……生前あなたにお世話になりました。そのことで……どうしてもお伝えしたいことがありまして」
◆1.小箱に眠っていた、母の願い
若者は、胸から小さな木箱を取り出した。
「母は……つぼるんさんのおかげで人生をやり直せたと言っていました。これは……亡くなる前に僕に託したものです」
つぼるんは胸の奥が熱くなるのを感じながら、木箱を開いた。
中には、古びていても丁寧に扱われた『問いノート』があった。
「これは……私が学習センターで配っていたノート……」
「はい。母は、ずっと孤独を抱えて生きていました。でも、あなたの『問い』が……生き方を変えるきっかけになったと話していました」
つぼるんは息を呑んだ。
ページには、彼女の細やかな文字がびっしりと書き込まれている。
『問いを持つと、生きやすくなる』
『私は私であって良いのだと思えるようになった』
『この学習センターは、私を生まれ変わらせてくれた大切な場所』
つぼるんは、あのときの初老の女性だということを思い出していた。
◆2.学習センターは『母の手で』再建されていた
若者は、穏やかな声で続けた。
「母は亡くなる数年前、閉館した後の学習センターを……自身の資金で再建することに決めました」
「……え……?」
「『あの場所を絶対に失くしたくない』と。あなたが灯した知の火を、守ろうとしたのです」
「う、うそ……本当に……?」
「つぼるん……すごいよ……!」
若者は静かに頷いた。
「昨年、センターはリニューアルオープンすることができ、僕が館長として引き継ぐことになったんです」
「君が……?」
「はい。母は独り身でしたが……高齢になってから、幼い私を養子に迎えいれてくれました。私が小さいころから、あの学習センターの話をいつもしてくれました。そして、いつか、学習センターを再建したいという夢を語っていました。でも、残念ながら、間もなく再建の準備が整うというタイミングで、どこか気が抜けたかのように、母は突然天国にいってしまったのです」
◆3.母の『最後の願い』
若者は、ノートの間に挟まれた折り紙を差し出した。
「これは、母が、つぼるんさんに残した最後のメッセージです」
つぼるんは、震える手でそれを開いた。
『私はあなたの知に救われた。
だから私の人生で返したい。
つぼるんさんに、どうか伝わってほしい。
あなたは無力なんかじゃない。
あなたの問いは、今も多くの人を照らしている』
つぼるんは言葉を失った。
長い沈黙のあと――ゆっくりと目を閉じた。
「……私は、あの日……あなたのお母さまを守れなかったと思っていた。そのうえ、結局、センターも守れなかった。でも……あの人が……私の代わりに守ってくれていたなんて……」
ゆのみんの湯気が静かに揺れた。
「つぼるん……ずっと、届いてたんだよ。ずっと、受け継がれたままだったんだよ」
◆4.知は、確かに受け継がれている
若者は姿勢を正し、つぼるんに深く頭を下げた。
「僕は、まだ未熟ですが……母の願いを継いで、館長として、この学習センターを続けていきます。あなたの『問い』を、あなたの知を……次の世代へ渡していきたいんです」
つぼるんは、胸の奥がじんわりと温かく広がるのを感じた。
「……ありがとう。私の知は……確かに次の世代へ、渡っていたんだね」
その瞬間――名のない器が、深く澄んだ音を響かせた。
『コトン……』
つぼるんの内側で、長い長い問いがそっとほどけていくようだった。