第32話「火に向かう」
夕方のキッチンには、小さな暮らしの音が満ちていた。
トントン、とまな板の音。
コンロの火がふっと揺れる。
窓の外には、子どもの笑い声。
ゆのみんは、ぽてぽてと台所を歩きながら、いつものように湯気をふわりと立ち上らせていた。
「ゆのみん、お茶いれて~!」
「はーい、いま行くよ~」
声はいつもと同じ。
湯気も柔らかい。
……でも。
今日はその湯気が、ほんのすこしだけ『薄い』ことに、ゆのみん自身はまだ気づいていなかった。
◆家族のために。今日も、明日も。
「ねぇ、ゆのみん、これ読んで~!」
子どもが絵本を抱えて走ってきた。
「うんうん、いいよ~」
ゆのみんは子どもの横に寄り添った。
湯気はあたたかい。
子どもはそれに頬を寄せて、安心したように笑った。
……この笑顔を見ると、やっぱり嬉しいな。
ゆのみんは、心の底でぽっと火が灯るような感覚を覚えた。
しかし、その直後――ふっと胸の奥で、小さな『冷え』が走った。
あれ……なんだろ?
気のせいだと思って、ゆのみんは少しだけ湯気を強くした。
◆夜、キッチンの灯りの下で
子どもが眠ったあと、ゆのみんはひとり、静かなキッチンに立っていた。
家事が終わっても、なんとなく落ち着かず、ぽてぽてと歩き回る。
湯気は、細く、揺れている。
今日……なんか、つかれたな。
ううん、いつも通り、みんなの役に立てたし……幸せ、なはず。
そう思おうとすると、ますます湯気が薄くなるようだった。
なんでだろ……『幸せ』って、重いな……
胸の内側で、何かが微かにきしんだ。
◆ふいに思い出す、二人の顔
ぽつり、と独り言がこぼれた。
「……つぼるん、元気かなぁ」
照明の下、ゆのみんの陶肌が少し影を帯びた。
つぎっぴーも、がんばってるよね……ふたりとも、大変なんだろうな……
わたしが弱音なんて言っても、逆に心配させちゃうし……
その瞬間、湯気が一瞬だけ止まった。
ゆのみんの中の『誰かのため』が胸の奥で重くのしかかった。
……そうだよね。
わたしは『大丈夫』じゃなきゃ。
ぽて、と一歩踏み出すと、湯気がふわりと戻った。
だけど、その温度はほんの少し、昨日より低かった。
◆眠る前、ゆのみんは気づいていない
横になると、ゆのみんは目を閉じて、ぽつりとつぶやいた。
「……明日は、もっとがんばらなきゃ」
その声は、あたたかさよりも、『義務』の色が濃かった。
ゆのみんは気づいていない。
その小さな『義務感の影』が、のちに情の器を大きく揺らすことになるということを。
ゆのみんの湯気は、眠りにつく直前、かすかに揺れ、細く細く消えた。