第53話「母の気持ち」
ゆのみんは、引っ越し用の段ボールの上にそっと置かれていた。
母が慌ただしく荷造りをしていた。
「……よし、ゆのみん。行こ」
……ほんとに、行くんだ……
家の温度は、昨夜よりさらに冷えていた。
父も、ほとんど姿を見せない。
母は涙を拭きながら、ゆのみんを持ち上げた。
ゆのみんの湯気が、その涙に触れてかすかに揺れた。
◆新しい家は静かすぎた
引っ越し先のアパートは、前の家よりずっと狭かった。
家具も少ない。
母の仕事用の資料と、食器が少し。
それ以外は、驚くほど何もない。
「ここで……また一から、やり直すの」
……前の家と、温度が違う……
前の家には父の朝のコーヒーの香り、子どもの宿題の音、夕食の笑い声があった。
ここには、静寂しかない。
湯気が行き場をなくして、ふわふわと天井に消えていった。
◆母の温度の『揺らぎ』
母は新しい家に入ると、押しつぶされたようにソファに座り込んだ。
「……はあ、疲れた……」
ゆのみんは母のそばに置かれ、精一杯、明るい湯気を出そうとした。
「まぁまぁ、まずは一息――」
言いかけた瞬間、母の温度が急に下がった。
「……一息つく暇なんてないのよ!」
湯気がしゅんとしぼんだ。
……お母さん、わたしの言葉……届かない……?
母の温度は、怒りと悲しみが入り混ざっていた。
その瞬間、仕事の電話が鳴り、母は慌てて応答した。
「はい……いえ、それは私じゃなくて……いえ、そんなこと言われても……!」
電話を切ると、深くため息をついた。
ゆのみんの湯気は、母の感情の波に吸われるように弱っていった。
これまで家族の温度に合わせてきたけれど……この『揺れ』には追いつけない……
◆ふと『家族の温度』を思い出す
夜になり、母は部屋の奥で眠り込んだ。
仕事疲れと泣き疲れですっかり力が抜けてしまったようだ。
ゆのみんは、暗い部屋の隅でぽつんと置かれていた。
静寂。
誰も動かない。
湯気も出せない。
そのとき――記憶がふっとよみがえった。
父のコーヒーの蒸気。
子どもの笑い声。
夕食の時のあのあたたかい混ざり合う湯気。
「………」
胸の奥が、じん……とした。
湯気になれない何かが、ゆっくり立ち上った。
……わたし、ほんとは……あの温かい家族が、好きだったんだ……
◆母のひと言――次の事件の予兆
母が寝返りを打ち、目をうっすら開けてつぶやいた。
「……ごめんね、ゆのみん……あなたまで……巻き込みたくなかった……でも、もう……戻れないの……」
その言葉は、かすかに震えていた。
戻れない? お母さん、どうしたの……?
母はすぐに寝息を立て始めたが、その言葉はゆのみんの胸に重く残った。
――戻れない。
――巻き込みたくなかった。
……わたし、ここにいて……いいのかな……?
ゆのみんの温度は、小さく、不安定に揺れ続けた。