第89話「光の詠み人」
つぼるんが書籍を完成させてから、数日が経った。
その原稿はまだ本になっていない。
印刷所にも持ち込んでいない。
ただ『ひとがま』の書庫で、ひっそりと桜の花びらを抱きながら横たわっていた。
そんなある日の午後だった。
◆1.一冊の原稿が、町へ歩き出す
ゆのみんが『湯気のひろば』で、対話会をひらくときを迎えていた。
地域の老人たち、若い夫婦、学校帰りの子どもたち――。
そして、ひとがまで焼き上げた、色とりどりの器たちが、温かな湯気に誘われて集まる。
常連の陶器のカップが声をかけた。
「ゆのみんさん、最近つぼるんさん見ないねぇ。どうしてるの?」
ゆのみんはにっこり笑った。
「つぼるんね……すごいことを成し遂げたんだよ。何十年も温めてきた『知』をね、ついに形にしたの」
ざわ……っと、ひろばに驚きが広がる。
「それ、見てみたい!」
「うん、今度、つぼるんに聞いてみるね」
◆2.つぼるんの『声』が、場を満たす
次の日、つぼるんは、自分の原稿をはじめてみんなに聴いてもらうことになった。
「じゃあ……今日は特別に、一部だけ持ってきて読もうと思う」
つぼるんは背中に抱えた布袋から、原稿をそっと取り出した。
表紙の和紙には、小さな桜の花びらが1枚だけ貼りついていた。
ひろばにいた器たちは、息をのんで見守った。
つぼるんは、最初のページを開く。
「じゃあ……読ませてもらうね」
少し緊張した声で、ゆっくりと言葉を紡ぎはじめた。
『老いるとは、光を小さくしていくことではない。光を他者に渡していくことだ。手放すとは、弱さではなく成熟である』
読み進めるほどに――器たちの表情が変わっていく。
目を閉じて聞く者。静かに震える者。涙をこぼす者。
ゆのみんの湯気も、文字のひとつひとつを抱きとめるように、ゆるやかに揺れていた。
「……この言葉……いつまでも隣で語りかけてくれてるように響いてる」
「そうでしょ……?つぼるんの言葉って、すごく静かなんだけど、胸の奥にふわっと灯るんだ」
立て続けに、誰かが言った。
「つぼるん先生! もっと聞きたいです!」
「本にしないなんてもったいない。町の図書館に置くべきだ!」
つぼるんは、不意をつかれたように、しばし言葉を失った。
「……私はただ、老いの手で残したいものを書いただけだから」
「それがね……みんなを照らし始めてるんだよ、つぼるん」
器たちの間に、静かだが確かな『熱』が広がっていた。
◆3.芽生える、新しい学び舎
そこへ、学習センターの若い代表(初老の女性の養子だった青年)が歩み寄った。
「つぼるんさん。あなたの言葉は、学習センターの『灯り』になると思います」
「灯り?」
「はい。母は……あなたから受け取った知や優しさで地域に学び舎を残しました。いま、センターは再建されて、誰もが学べる場所として息を吹き返しています」
青年は頭を下げた。
「そのセンターに……ぜひ、あなたの書を置かせていただきたいんです。あなたの知は、この町の財産です」
つぼるんの胸に、静かだが強い火が灯った。
「……こんな日が来るとは思わなかった」
笑みを浮かべ、決意を込めて頷いた。
「うん……使ってくれると嬉しい。私の言葉が、また誰かの光になれるのなら」
器たちは一斉に拍手し、ゆのみんの湯気は明るい揺らぎを放った。
「つぼるん……本当におめでとう。よかったね」
「ありがとう、ゆのみん。そして……つぎっぴー」
その名を呼ぶと、遠くの空で小さく金色の光が、ふっと揺れた気がした。
「これが……私という器が、私らしく生きた証だったんだな」
桜の花が舞い、ひとがまに夕日が落ちた。
つぼるんの想いを乗せた原稿は、静かに光を帯びながら、次の場所へ歩き始めていた。