第90話「静かな春に筆をおく」
春のひとがまは、多くの桜が散りはじめていた。
風はやわらかく、鳥の声は遠くで響き、窯の煙はすうっと天に昇っていく。
つぼるんは、庭の縁側に座っていた。
原稿を抱え、あたたかい春風にページをめくらせながら、穏やかに目を細めている。
◆1.三人での最後の春
その午後、ゆのみんが湯気を揺らしながら近づいてきた。
「つぼるん、今日もここにいるんだね。気持ちいい季節だもんね」
「……あぁ。風が、昔の声を運んでくる」
「昔の声?」
「あいつの声だよ。『とりあえずやってみよう!』ってな」
ゆのみんは笑った。
「つぎっぴー、ほんとうに……ずっとそばにいるね」
つぼるんは頷き、胸に手を置いた。
「私は長いあいだ……知を抱え込んでばかりだった。だが今は違う。知は、渡すためにあるのだと分かった」
「うん。つぼるんの書は、もうたくさんの人に届き始めてるよ」
ふたりはしばらく、桜が舞うのを静かに眺めていた。
◆2.名のない器が、また光る
風がひときわ強く吹いたとき――書庫の棚に置かれた名のない器が、ふっと光った。
つぼるんはその光を見つめた。
「……あぁ。呼んでいるのだな」
「呼んでる……?」
「うむ。『ひとがまの向こう側』が見えてきた」
つぼるんは立ち上がり、ゆっくり歩きながら続けた。
「もうすぐだ。つぎっぴーが行った、あの『空の向こう』へ……私も行くべき時が来た」
ゆのみんは胸がきゅっと締めつけられた。
「いやだよ……つぼるん……まだいてよ……」
つぼるんはふっと笑った。
「ゆのみん。おまえがいるかぎり、私はどこにも消えはせんよ」
◆3.その日の夜――静かに、静かに
その日の夜。
桜が散る音さえ聞こえそうなほど静かなひとがまの書庫に、つぼるんはひとりで座っていた。
机の上には完成した原稿。その上に、名のない器が光を落としている。
つぼるんは原稿をそっと撫で、呟いた。
「……陶じい。私はやりきりました。あなたが教えてくれた『待つ力』が、私をこんなところまで連れ出してくれました」
筆を置き、目を閉じた。
「そしてつぎっぴー……君の金線が、私の知らなかった世界を照らしてくれた。試しにやってみて、本当によかったよ」
ゆっくり、静かに息を整えた。
「……私は、満ちた。いや、みんなのおかげで満たされたんだ。――みんな、本当にありがとう」
その瞬間、名のない器はやわらかい金色の光に満ちた。
光は書庫全体を包み、桜色の風が吹いたように、すべてがふわりと揺れた。
そしてつぼるんは、光の中で、静かに、静かに、器としての一生を終えた。
その表情は、まるで眠っているようで、明日も目を覚ますと思うくらい、いつもと同じ穏やかな顔だった。
◆4.翌朝、ゆのみんが見つけたもの
翌朝、ゆのみんが書庫に入った瞬間――足が止まった。
「……つぼるん……?」
つぼるんは机にもたれるように、原稿をそっと胸に抱いたまま、静かに横たわっていた。
ゆのみんは震える声でつぶやいた。
「……ありがとう……つぼるん……」
涙がぽたりと落ち、原稿の端を濡らした。
しかしその涙の上で、原稿の文字がほのかな光を放ち始めた。
つぼるんの書は、もう彼だけのものではなかった。
「……うん。渡すからね。あなたの光、ちゃんと渡すね」
ゆのみんは原稿を胸に抱きしめ、書庫をそっと閉じた。
◆5.春の風が、三人を結び直す
外では桜がほとんど散りかけていた。
その風の中、ゆのみんの湯気がふわりと揺れた。
「つぎっぴー……つぼるんが会いにいったよ。もう寂しくないよね。……迎えてあげてね」
空のどこかで、金色の風が小さく光った気がした。
「ふたりの志を……わたしが、ちゃんと広げるから」
その声は桜の風に溶け、ひとがまの空へ吸い込まれていった。