第15話「名前を呼べない日」
夜の〈ひとがま〉は、昼間の熱をすっかり手放して、冷えた空気をまとっていた。
陶じいの家の灯りだけが、小さく土の道を照らしていた。
ゆのみんは、その灯りのそばで静かに座っていた。
ぽつ、ぽつ……弱い湯気が途切れながら漏れていく。
(名前を……今日も、呼べなかったな。)
ゆのみんは思い返した。
今日一日、つぎっぴーにも、つぼるんにも声をかけようとして、喉の奥に何かがつっかえて出てこなかった。
近くにいるのに、呼べない――それがこんなに苦しいなんて、初めて知った。
一方、裏山の暗がりで、つぼるんはひとり、夜風にさらされていた。
(名前を呼ぶって、こんなにも『責任』を伴うのか……)
名前を呼べば、相手の視線が返ってくる。
その視線に、うまく向き合えるのか不安になった。
(つぎっぴー……君を呼んだら……また傷つけてしまう気がして。)
土の体の奥で、小さな『ひび』がじんと痛んだ。
それは誰にも見えない、言葉にもできない痛み。
そして、坂の途中。
つぎっぴーは夜空を見上げながら、ひっそりため息をついていた。
(ぼく……名前を呼ばれるのが怖くなってる。)
呼ばれなければ寂しい。
でも、呼ばれたら胸がぎゅっとなる。
(つぼるんにも、ゆのみんにも……どう返せばいいかわからないんだ。)
金継ぎの線が、夜の光をうっすら受けていた。
その光は、どこか心許ない。
陶じいは、家の前で湯を沸かしていた。
土間の隙間から、三人の『気配の方向』を感じ取った。
「名前ってのはな……呼ぶ側にも、呼ばれる側にも『覚悟』がいる」
ゆのみんが小さく目を上げた。
「覚悟……?」
「うむ。名前は『その人の今』を引き寄せる。相手の心の火に触れる行為じゃけぇ」
ゆのみんは少し震える声で聞いた。
「……じゃあ、呼べない日は、どうすればいいの?」
陶じいはしばらく考えた。
ふっと柔らかく笑った。
「呼べん日があってええ。呼べる日が来るんじゃから」
ゆのみんは胸の奥で何かが少しだけ解けた気がした。
その頃、つぎっぴーは坂を下りようとした足を止めた。
夜空に向かって名前を呟いた。
「……ゆのみん」
小さな声。
「……つぼるん」
もっと小さな声。
空には聞こえないほどの声だったけれど、呼んだ瞬間、胸がじんと熱くなった。
あ……まだ、好きなんだ。ふたりのこと。
それに気づいたら、少しだけ、足が軽くなった。
つぼるんもまた、夜風の中でぽつりと呟いていた。
「……つぎっぴー」
「……ゆのみん」
声は震え、すぐ空へ溶けていった。
ぼく……呼びたかったんだ。
それだけで胸の痛みが少し和らいだ。
そしてゆのみんは……遠くの闇に向かって、静かに続けた。
「……つぎっぴー」
「……つぼるん」
湯気がふわりと漂い、夜風に溶けていった。
誰にも届かない名前。
でも、その『呼びたい気持ち』だけが三人のあいだで細く繋がっていた。
その夜、三つの名前が、それぞれ別の場所で、小さく、小さく、空へと放たれた。
名前を呼べない日――その静かな夜は、三人の器の内側に深く染み込んでいった。