第44話「全員を温めようとして誰も温められない」
次の日、ゆのみんの『定位置』がなかった。
いつも座っている食卓の端。
子どもが水を飲んだ後に置かれることが多かった場所。
けれど今朝は――ゆのみんはキッチンの棚の上にいた。
あれ……? わたし、ここじゃなかったはず……
母が言った。
「最近、テーブルが散らかるから……ゆのみんはこっちに置いとこ」
軽く、何気ない言葉だった。
でも、ゆのみんの湯気に、小さな影を落とした。
そっか……わたし、今日は……食卓にいられないんだ……
湯気がふわりと揺れ、細くなった。
◆父と子どもの会話が、ちょうど届かない
棚の上から見下ろす位置は、いつもより少し遠い。
「今日の準備、できてるか?」
「うん……一応」
「一応、じゃなくて……」
言葉がつっかかり、父がため息をついた。
父さん……苛立ってる……でも子どもも……疲れてる……どうして、こんな朝なんだろ……
ゆのみんは、いつもの場所にいないだけで、『家族の温度』が届かなくなることを知った。
湯気がほんの少しだけ消えた。
◆昼、母がひとりで飲んだお茶
夕方前。
母がひとりで台所に立ち、お茶を入れていた。
でも――そのお茶は、ゆのみんではなく別のカップに注がれた。
「ちょっと……気分を変えたくて……」
母は自分にそう言い聞かせるようにほっと息をついた。
ゆのみんには聞こえた気がした。
わたしじゃ……今日はだめなのか……
母が別のカップでお茶を飲むたびに、ゆのみんの湯気が静かにしぼんでいった。
こんなこと……前にもあったっけ……?
気づかなかっただけ……? それとも……今日、初めて……?
自分でもわかっていなかった。
ただ、『離れていく』感じだけが、胸の底にひっそり落ちていった。
◆夜、父のひと言が決定打になった
父が帰宅し、鞄を置き、母に声をかけた。
「なぁ……最近、食器増えてないか?」
「え? 増えてないよ」
「同じのが二つに見えるんだよな……」
「さあ……疲れてるんじゃない?」
夫婦の会話は短く終わった。
ゆのみんは、棚の上からその会話を聞き、胸の奥がひりっとした。
父さん……わたしのこと……気づいてないんだ……
ゆのみんは声を出そうとした。
でも器の声は、人間には届かない。
湯気がふるえ、光が弱まっていった。
温めたいのに……近くに……いられない……
わたし……ここに……いていいのかな……
『ぽたり』
湯気が一粒、涙のように落ちた。
◆深夜、〈ひとがま〉へ向かう道
その夜、ゆのみんはそっと棚から降り、家族に気づかれないようにテーブルを抜け出した。
家の外に出ると、夜風がひんやりしていた。
わたし……居場所を……なくしたのかな……
歩くたびに、湯気は揺れては細く、揺れては細く。
山道に差し込む月明かりだけが、ゆのみんをそっと照らしていた。
『ぽて、ぽて、ぽて』
〈ひとがま〉の灯りが見え始めたとき、ゆのみんはやっと少し息を吸えた。
ここでは……まだ……湯気を出してもいい……
土間に入り、火の前に座ると――『ふわり』湯気がほんの一瞬、戻ってきた。
……あぁ。わたし……ここで……温まりたい……
ゆのみんは小さくつぶやいた。
「……喪失って……こういう静かなものなんだね……」
火は、ゆっくり寄り添うように揺れた。