第74話「湯気に触れた日」
その日は、朝から風がやわらかかった。
ゆのみんの湯気も、いつもより細く、長く伸びている。
つぎっぴーが火のそばで言う。
「ねえ、ゆのみん……今日、いつもと違う感じ」
「うん……なんだか胸がざわざわするの」
つぼるんは、名のない器の前で目を細めた。
「風の匂いが変わった。『誰か』が、来るのかもしれない」
ゆのみんは、湯気を揺らしながら『誰だろう……?』と自分の心にそっと問いかけた。
そして――ひとがまの戸口から、静かな足音が響いた。
◆1.母、現る
戸口に立っていたのは、ゆのみんがお世話になっていた家の『お母さん』だった。
以前より少しやせて、表情に深い影が差していた。
「……ここに……ゆのみんが……いるって聞いて……」
声は震えていた。
ゆのみんは、ぽてぽてと近づきながら、胸の奥がキュッと痛むのを感じた。
「……お母さん……?」
母は、ゆのみんを見るなり、手で口を押さえ、目に涙をためた。
「やっぱり……あなた……私が……追い出してしまった……ゆのみん!」
つぎっぴーもつぼるんも、静かに見守った。
◆2.湯気が呼び起こす、失われた記憶
母は膝をつき、ゆのみんを両腕でそっと包もうとした。
だが――ゆのみんの湯気がふわりと彼女の顔を包んだ瞬間、母の肩が大きく震えた。
「……ああ……この匂い……このあったかさ……」
ゆのみんが、その胸元を見上げた。
「お母さん、わたし……あのとき、お母さんを責めてなんか……」
母は頭を大きく振った。
「違うの……違うのよ……あなたに罪はひとつもない……」
母の涙が、ぽたり、とゆのみんの縁に落ちた。
そのしずくは、湯気と混ざり、ほのかに光った。
◆3.母の告白
「あなたを追い出したあの日……わたし、心が壊れていたの。夫ともすれ違って……家族がバラバラになっていくのが怖くて……強がらないと自分が崩れそうだった……」
ゆのみんは、そっと寄り添いながら言った。
「壊れてしまいそうなときこそ……、あたたかさが必要なんだ」
「わかっている……あなたの湯気が……欲しかったのに……わたし、自分であなたを外に追い出して……」
「うん、大丈夫。もう、泣いてくれているから十分にわかる。だって、泣くって……心がほどける音だから」
母は、声を立てずに泣いた。
その涙は、ゆっくり、ゆっくり床に落ちた。
◆4.ゆのみんの胸の奥がひらく
ゆのみんの湯気は、母の涙に呼応するように強くなった。
「わたしね……出ていったあとも、お母さんのこと……ずっと好きだったよ」
母の目が大きく開かれた。
「……ごめんなさい……本当に……ごめんなさい」
「ううん。許すとか許さないとかじゃなくて……いま、こうして会いにきてくれたのが嬉しいんだよ」
母は、ゆのみんをそっと抱きしめた。
その瞬間――名のない器が、コトン、と小さく鳴いた。
「『和解』の音だ……」
「つながったんだね……長い時間をかけて……金線みたいに」
ゆのみんの湯気は、ひとがま全体に広がり、優しい光の輪に変わっていった。
◆5.母の最後の一言
帰り際、母は振り返って言った。
「……また夫にも、向き合ってみるわ。ずっと話さなきゃ、って思ってたの。あなたに会ったら……もう一度向き合いたくなった」
ゆのみんは、ぽてぽてと歩み寄り
「うん。また、みんなで一緒にお茶を飲めたら……嬉しいな」
母は涙を浮かべたまま微笑んだ。
長く閉ざされていた扉が、この日そっと開いた。
ゆのみんの湯気が、ずっと埋められなかった空白の期間を、やさしく、あたたかく満たしていった。