第84話「最後の金継ぎノート」
冬の気配がひとがまの山に忍び寄っていた。
空はどんよりと重たく、風は鋭く、木々は静かに佇んでいた。
ゆのみんは、火鉢のそばでそっと湯気を揺らしていた。
「つぼるん……今日、なんだか変な風の音がするね」
つぼるんは頬杖をつき、外の枯れ葉を見つめながら静かに応えた。
「……海風の匂いが混じっている。この山で海の気配がするのは、珍しい」
ゆのみんの湯気が、少し震えた。
「つぎっぴー……大丈夫かな……」
その時――ひとがまの戸を叩く音がした。
『コン、コン……』
「めずらしい……お客さん……?」
ゆのみんはぽてぽてと戸口に向かい、そっと戸を開けた。
そこには、コートを濡らした若者が立っていた。
海沿いの町でつぎっぴーを支えていた、あの若い陶工だった。
若者は深く頭を下げ、胸に大切そうに何かを抱えていた。
「……ゆのみんさん、つぼるんさん。どうしても、直接お届けしたくて」
つぼるんは、若者の表情を見た瞬間、言葉を失った。
若者は震える声で言った。
「つぎっぴーさんは……一昨日の夜、みんなに見守られて、安らかに……旅立たれました」
ゆのみんの湯気が、ふわりと消えたように見えた。
「……いやだ……いやだ……そんな……」
つぼるんは拳を握りしめ、深く、深く呼吸した。涙は見せないが、声は少し震えていた。
「……そう、か」
若者はそっと、胸に抱えていたノートを差し出した。
それは、つぎっぴーの欠け目に合わせて作られた、手作りの布で包まれた厚いノートだった。
「これは……つぎっぴーさんの『心の金継ぎノート』です。最後の教会で、みんなに話しながら書いた記録……そして……お二人に向けた言葉が、最後にまとめてありました」
ゆのみんは涙で湯気が揺れながら、震える手で受け取った。
「つぎっぴーの……ほんとうの……最後……」
若者は頷いた。
「笑っていました。信じられないくらい……やさしく。最後の瞬間まで、みんなにとっての『光』でした」
ゆのみんの湯気が、静かに、長く揺れた。
◆1.つぎっぴーの最後の言葉
つぼるんがノートを開いた。
そこには、金のインクでこう記されていた。
――
『ゆのみんへ。
君のあったかさはね、ぼくの中でずっと灯りだった。
どんなに欠けても、あの湯気がぼくを戻してくれたよ。
ありがとう。
君が作る『場』は、きっと、ずっと、どこまでも世界をあっためる』
――
ゆのみんは声にならない声で泣いた。
「つぎっぴー……あなたって……最後まで……そんな……」
つぼるんは次のページをめくった。
――
『つぼるんへ。
ぼくが世界に出られたのは、つぼるんの『問い』があったからだよ。
あの時、『それは本当に自分の言葉かな?』って言ってくれたよね。
あれがぼくの金線になったんだ。
ぼくの欠けと、君の知恵でつながった人生だった。
ぼくの弱さを支えてくれて、本当にありがとう』
――
つぼるんは静かにページを閉じた。
その眉は震えていた。
「……つぎっぴー……最後まで……ほんとに純粋な心で」
若者はふたりを見ながら、深く深く頭を下げた。
「つぎっぴーさんは……最後にこう言ったんです。『ゆのみんとつぼるんに、ありがとうって伝えて。ぼくは幸せだったって、ちゃんと言ってね』……って」
ゆのみんはつぼるんにもたれ、小さな声でつぶやいた。
「……つぎっぴー……あなた……幸せだったんだね……それなら……それなら……嬉しいよ……でも……もっと会いたかった……」
つぼるんも、背筋を伸ばしたまま、静かに涙を一筋流した。
「ああ……つぎっぴー……君に出会えて……私たちは……幸せ者だったよ……」
◆2.『祈り』という、深い静けさ
その晩、ひとがまにはほとんど言葉がなかった。
ゆのみんは金継ぎノートを胸に抱えたまま、火鉢のそばで静かに揺れていた。
つぼるんは、名のない器の横に座り、目を閉じて祈り続けていた。
嘘みたいに一切の風が止んだ。
世界がとても静かになった。
そこには、悲しみの泣き声ではなく――深い深い『感謝』の呼吸だけがあった。
つぎっぴーの金線のように、ふたりの胸にも、静かな光が宿っていくのが分かった。
『欠けながら生きた器の魂』が、確かに胸に残っていたのだった。
◆3.最後のページに刻まれた言葉
ゆのみんが、金継ぎノートの背表紙に文字があることに気づいた。
そこには、つぎっぴーの筆跡でただ一言だけ書かれていた。
――
『金線は、これからも君たちに続いていく』
――
ゆのみんは静かに目を閉じ、湯気をやわらかく放った。
つぼるんも、その光景を見守りながら言った。
「……続けよう。つぎっぴーの光の先を」
ゆのみんが、涙でぬれた声で答えた。
「うん……つぎっぴーの分まで、あったかい場所、作るから……!」
名のない器が、ふわり、と光った。
それはまるで――つぎっぴーが、ひとがまに帰ってきて、そっと三人の肩を抱いたような、そんな温かい光だった。