第86話「言葉の窯に火を入れる」
つぎっぴーの金継ぎノートが届いてから、十日ほどが過ぎた。
冬の山は静まり返り、ひとがまの屋根には霜が降り、すべての音が薄く凍っていくようだった。
つぼるんは書庫にこもり、暖炉の火だけを灯して、じっと机に向かっていた。
机の上には、古びたノート、陶じいの残した筆、そしてつぎっぴーの最後のメッセージ。
――
『つぼるんへ。
ぼくが世界に出られたのは、つぼるんの『問い』があったからだよ。
あの時、『それは本当に自分の言葉かな?』って言ってくれたよね。
あれがぼくの金線になったんだ。
ぼくの欠けと、君の知恵でつながった人生だった。
ぼくの弱さを支えてくれて、本当にありがとう』
――
その文章を読み返した瞬間、胸の奥で古い記憶がふっと灯った。
ひとがまで過ごした日々。
陶じいが教えてくれた「待つ」という知恵。
ゆのみんの湯気に救われた夕暮れ。
つぎっぴーのきらめく金線。
「……私がこれから生きていく理由は、この『知』を……形として残すことなのかもしれない」
つぼるんは、震える手で筆を取り上げた。
◆1.『問い』を書き始める老いた手
紙の上に筆を落とす。
最初の一文字は、どうしても震えた。
老いてなお、つきまとう不安。
手の震え、視界のにじみ、「いまさら何ができるのか」という心の影。
だが、つぼるんは筆を握り直した。
「あいつは……金線を抱えたまま、最後まで前に進んだのだ」
深呼吸をひとつ。
そして、一行を書いた。
『問いは、人生の灯りである。答えは、灯りに寄り添う影である』
つぼるんは書いた文字を見つめながら、小さく、しかし確実に頷いた。
「……書ける」
次の行の言葉が、自然と浮かんできた。
『人は弱さのときに深まる。弱さとは、知が流れ込む器の『ひらき』である』
筆が滑らかに進む。
そして、筆が進むと、また新たな気づきと問いが生まれる。
「……そうか。私はずっと……『ひらく』ことを恐れていたのだな」
ゆっくり、ゆっくりだが、確かに文字が重なっていく。
暖炉の火がぱちぱちと音を立て、静けさの中で筆の音が心地よく響いた。
◆2.ゆのみんの訪問
その日の夕方。
ゆのみんが、『湯気のひろば』のオープン準備を終えて訪ねてきた。
「つぼるん、大丈夫? 最近、ずっとこもってるから心配で……」
書庫を開けた瞬間、机の上に広がる『文字の山』に息をのんだ。
「うわぁ……! つぼるん、こんなに書いたの!?」
机の上には、つぼるんが一日がかりで書いた十数ページの原稿が重ねられていた。
つぼるんは照れたように肩をすくめた。
「体力は落ちたが……知は、まだ生きているらしい」
ゆのみんは原稿にそっと近づき、一行読んだ。
『生きるとは、自分の中の『空白』を愛していく過程のこと』
「……あったかいね」
つぼるんは座り、ゆのみんを見つめた。
「私は『知』しか持たなかった。だが……つぎっぴーが最後にくれた言葉でわかった。知もまた、誰かの心をあたためる力になるのだと」
ふたりはしばらく黙った。
暖炉の火が、静かに呼吸しているようだった。
「ねぇ、つぼるん。書き上げたら……ひろばで読んでほしいな。みんな、絶対に喜ぶよ」
つぼるんは目を細め、湯気の柔らかさを味わうように息を吐いた。
「……そうだな。あの場所で、つぎっぴーにも聞いてほしいものだ」
「うん……きっと聞いてくれるよ。わたしたちが『つぎっぴーを思い出しながら話す言葉』はぜんぶ、金線の上にのってるから」
つぼるんの瞳に、静かな光が宿った。
◆3.夜、名のない器が小さく光った
ゆのみんが帰ったあと、書庫には静かな夜が降りた。
つぼるんは原稿を閉じ、暖炉の火を眺めながら、そっと目を閉じた。
そのとき――名のない器が、棚の上でふわりと光った。
『コ……トン……』
つぼるんはゆっくり目を開けた。
「……もう少し、進めろ、と言うことか。言われなくても、そうするさ……。それが、私の最後の使命だから」
器は、まるでつぎっぴーの金線が、ふっと里帰りしてきたかのように、あたたかい光を帯びていた。
つぼるんは頷いた。
「あぁ。書くよ。書き続ける。これは……私なりの生きざまだ」
静かな決意が、書庫の空気をゆっくり満たしていった。
つぼるんは再び筆をとり、夜の帳の中、言葉という灯りを書き進めていった。