第91話「静かな孤独、静かな光」
つぼるんがひとがまを去って、早いもので三か月が過ぎた。
山あいの空気は、以前と同じように澄んでいる。
けれど、その静けさは、どこか前よりも深く、遠くまで続いているように感じられた。
ゆのみんは、縁側のいつもの場所にちょこんと座り、湯気をふわりと立ちのぼらせていた。
「……今日も、いい湯気だね」
自分でそうつぶやいて、自分でふふっと笑う。
ぽつん、とした声が、ひとがまの中に吸い込まれていく。
返事はない。
でも――それを寂しいとは、もうあまり思わなくなっていた。
つぼるんが亡くなった直後、ゆのみんは、空っぽになったような日々を過ごした。
縁側に座っても、隣から『それはほんとうに自分の言葉かな』と問いかけてくる声はもうない。
『とりあえずやってみよう!』と言って、陶房の周りを走り回っているつぎっぴーもいない。
火鉢の前でも、『焦るでない。焼き上がりには時間がいるんじゃ』と笑う陶じいの声もない。
湯気だけが立ちのぼり、やがて、すぐに消えていく。
――わたしだけ、ひとり、残っちゃった。
そう思うたびに、湯気は細くなり、自分の縁の内側へ内側へと、小さく閉じこもろうとしてしまった。
けれど、時が経つうちに、その『ひとりきり』の時間の中に小さな変化が生まれ始めた。
風の音。窓ガラスをなでる雨。屋根に落ちる木の葉の、かすかなこすれ。
それらが、以前よりもはっきりと、ゆのみんの心に届くようになったのだ。
その日も、山からの風が、ひとがまにそっと流れ込んできていた。
「……今日は、風がやさしいね」
ゆのみんがそう言うと、ふわっと湯気が横に流れ、縁側から庭へと伸びていく。
庭の片隅には、もうぼろぼろになった古い蹲(つくばい)がある。
陶じいが、若いころ遊びでつくったと話していた小さな水鉢だ。
その縁に、ふっと湯気が漂って、少し留まった。
「陶じい……今、どこにいるのかなぁ」
声に答える者はいない。
代わりに、どこからともなく、陶じいのあの口癖が心の奥でよみがえった。
――人も器も、焦るとヒビが入るんじゃ。何事も大器晩成じゃ。
「……焦らなくていい、か」
ゆのみんは、少しだけ湯気を大きくして、ゆっくり息を吐くように広げた。
孤独は、相変わらずそこにある。
でも、その孤独は埋めるべき穴ではなく、静かに自分の声が響く『ひろば』のようにも感じられてきていた。
ひとがまの中を歩くと、あちこちに、『誰かがいた気配』が残っている。
陶じいの土まみれの棚。
つぼるんが本を並べ直した書庫。
つぎっぴーの金線の粉が、どこかにまだ舞っている気がする窯の前。
ゆのみんは、ぽてぽてと歩きながら、ひとつひとつに話しかけるようになっていた。
「ここ、つぼるん、よく座ってたよね。あのとき、真剣な顔で原稿をシワシワにしてさ」
「つぎっぴーが、躓いて転んだ石ころ。こんなところにあると危ないけど、なんかあったかいなあ」
「陶じい、ここでよくうたた寝してたよね。土の上で寝ちゃうから、からだの半分、土になりかけてたよ」
話しかけているうちに、いつのまにか、胸の中の『さびしさ』がじんわりとあたたかくなっていく。
――あ、わたし、ひとりでしゃべるの、けっこう好きかも。
ふと、そんなことを思ってしまい、湯気がくすぐったそうに揺れた。
夜になると、ゆのみんは小さなランプの光を受けて、自分の影を見るのが好きになっていった。
壁に映る、丸い小さなシルエット。
そこから、ちょこんと短い手足が生えている。
「……なんだか、子どものころみたい」
そうつぶやくと、影の中に、ふと別の影が重なったような気がした。
ひとつは、背の高い壺の影。もうひとつは、欠け目をきらりと光らせる小さな器の影。
「つぼるん……つぎっぴー……?」
目を凝らすと、それはただのゆのみんの影の揺らぎに過ぎないのだけれど、胸のどこかで、『いや、たしかにここにいる』と告げている気がした。
「ねぇ、聞こえる? わたし、いま、けっこうご機嫌なんだ。あったかい湯気もちゃんと出せるんだよ」
ゆのみんは、影に話しかけるみたいに言った。
「さびしいけど、さびしくない。ひとりだけど、ひとりじゃない。なんかね……そういう感じなんだよ」
小さな影は、揺れて、揺れて、最後に、少しだけ頷いたように見えた。
「まぁまぁ、まずは一息いれよっか」
ゆのみんは、誰にともなく、いつもの口ぐせを言ってみた。
「でも、もう十分、一息ついたよね」
ひとがまの空気が、その言葉に呼吸するようにふわりと広がった気がした。
あの頃のように、目の前に誰かが座っているわけじゃない。
でも、湯気の向こうに見える『もう会えない誰かたち』が、静かに笑っているような気もした。
「ねぇ、聞いてくれる? わたし、これから――みんなの話を、もっともっと聴こうと思うんだ」
そう、ひとりごとのように宣言した。
静かな孤独の夜の中で、その言葉だけがはっきりと響いた。
「『器物語』(いれものがたり)っていう名前、どうかな……自分の器のお話を、みんなで、あったかく語り合う会」
湯気がふわっと大きくなった。
それはまるで、ひとつの小さな『決意』が、ひとがま全体に淡い光として広がっていく瞬間だった。
孤独は、ただの空洞ではない。
そこは、長い時間を共にした仲間たちの気配と、これから出会う誰かの声を受け止めるための余白である。
「……うん。わたし、やってみる」
ゆのみんは小さく頷いて、胸のあたりを、ぽん、と叩いた。
静かな夜の中で、ゆのみんの湯気は、ひときわやさしい光を帯びて立ちのぼっていった。
その光は、これから始まる『器物語』の幕開けを、そっと見守っているようだった。