第93話「ひらかれる心」
『湯気のひろば』の夜明けは、いつもよりすこし薄青く見えた。
ゆのみんは、昨日の『器物語』の余韻がまだ胸に残っていて、ぽかぽかした湯気をまといながら、ひろばの中央にちょこんと座った。
「昨日は……すごかったなぁ」
ぽそっ、とつぶやく。
湯気がふわっと揺れて、まるで相槌を打つみたいだった。
「わたし……聞いてただけなのに。でも、それでよかったんだよね……?」
言葉にした瞬間、ひろばの空気が、静かに頷いた気がした。
その日の午後、再び、ぽつりぽつりと器たちが集まってきた。
急須、花柄のお皿、マグカップ、そして昨日は何も話さなかった土器も。
彼らは特に約束をしたわけでもないのに、『ここに来るのが自然』とでも言うように、ゆっくりと席に着いていった。
「みんな、今日も、来てくれてありがとう」
いつものやわらかい湯気。
その湯気に誘われるように、花柄のお皿がそっと口を開いた。
「昨日……話したあと……ちょっとだけ、心が軽くなったんです」
「うん」
「家に帰ったら……なんだか、空気が違って見えました。あの冷たかった部屋が……少しだけ、あたたかく感じたんです」
ゆのみんの湯気が、そっとその言葉を包むようにゆらめいた。
「そうなんだね……こちらこそ、話してくれて、ありがとう」
花柄のお皿は、昨日よりも少し堂々として見えた。
すると、隅に座っていた土器が、おそるおそる手をあげた。
「……あの……わたしも……話してみてもいいですか」
「もちろんだよ。いつでも」
土器は長い沈黙のあと、ぽつりと語り始めた。
「わたし……形がいびつで……ずっと『古い欠陥品』って呼ばれてた時期があって……」
ひろば全体が、そっと息をひそめる。
「誰もわたしなんか使ってくれなくて……棚の奥に置かれたままで……『必要とされない』って、こんな感じなんだなって……ずっと思ってました」
ゆのみんの胸がぎゅっと締めつけられた。
――あぁ、昔のつぎっぴーと、ちょっと似てるかもしれない。
「ねぇ……土器さん」
「はい……?」
「わたし……あなたがここに来てくれるの、すごーくうれしいよ」
土器の縁が、かすかに震えた。
「あなたの『いびつさ』……それ、わたしには個性にしか見えない。世界にひとつしかない、すてきな形だよ」
「……そんなふうに言われたの……初めてです」
その声は、何十年ぶりかに陽の光を浴びた土のように、かすかに、でも確かに震えていた。
その瞬間だった。
ひろばの空気が、ふわぁ……っとあたたかく膨らんだ。
それは誰かの言葉の力ではなく、『語りが語りをひらく』その連鎖の力だった。
花柄のお皿が涙を落とし、マグカップが急須にそっと寄り添い、土器はぽたぽたと涙とも湯気ともつかぬしずくを落とした。
ゆのみんは、その真ん中で静かに湯気を揺らした。
――あぁ。これか。
これが、器を『ひらく瞬間』なんだ。
ゆのみんの湯気は、ひとがまにできた小さな雲のように、じんわりと広がっていった。
器物語が終わり、皆が帰ったあと。
ひろばにひとり残ったゆのみんは、そっと自分の縁に手を当てた。
「……わたし、いま……すごくしあわせだなあ」
誰もいないはずなのに、ふと、背後から声がした気がした。
陶じいの声。つぼるんの声。つぎっぴーの声。
――何事も大器晩成じゃ。
――きっと、それがゆのみんらしい生き方だ。
――これからも、どんどんやっていこう!
ゆのみんは、胸がじんわりとあたたかくなるのを感じて小さく微笑んだ。
「うん……ありがとう。わたし、ちゃんと聞こえてるよ」
湯気は静かに揺れ、まるで三人がそっと背中を押してくれているようだった。
湯気が静かに舞い上がり、ひろばの梁へ、光へ、空へと溶けていった。
その湯気の中に、ゆのみんは確かにみんなの姿を感じていた。
――まだ続く。
――わたしには、まだ役目がある。
そう思えた日だった。