第97話「湯気の奥の静かな予感」
ゆのみんの話が終わったあと、『湯気のひろば』には、しばらく音のない時間が流れた。
誰もが言葉をなくしていた。
風が吹けば湯気が揺れてしまいそうで、誰も息を強く吸えずにいた。
そんな沈黙の中、ぽつり、と一つの声が落ちた。
『どうして……そんなに優しいんですか?』
それは、ひとりの若いマグの問いだった。
『湯気のひろば』でもまだ新米の器で、いつも緊張した面持ちで参加している子だ。
「ゆのみんさんは……そんなに傷ついたのに……どうして、人を嫌いにならなかったんですか?」
問いを投げたあと、彼はびくっと体を震わせた。
こんな核心にふれる質問をしてよかったのだろうか、と。
しかし、ゆのみんは、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「……質問をしてくれて、ありがとう。それは、わたし自身、ずっと考えてきたことなんだけど……」
ゆっくり湯気を吸い込み、そっと吐き出す。
「人を嫌いになりそうになったことも、何度だってあった」
「わたしは……そんな強い器じゃないから」
そう言ったとき、ゆのみんの声は、どこか自分自身に語りかけているようだった。
◆優しさは持って生まれたんじゃない
「優しさってね……もともと持ってるものだと思ってた」
「あったかい器に生まれたから、わたしは優しくできるんだって」
そして、しばらくして、ゆのみんは力なく笑った。
「でも……違ったんだ。優しさって、『育ててもらうもの』だったんだよ」
ひろばの空気が、きゅっと締まる。
ゆのみんは続ける。
「陶じいにあたためてもらって、つぼるんに考える時間をもらって、つぎっぴーに前へ進む力をもらって……」
「その全部が、わたしの優しさになったんだ」
マグは目を丸くした。
その答えはきっと、自分が想像していたものより、ずっと大きく、ずっと深かった。
「……優しさって、一人じゃつくれないんですね」
「うん。一人じゃ、できない。みんな一人で生きられるほど強くないから」
ゆのみんは、自分の縁に指を当てながら語る。
「だから、わたしにとっては――仮に誰かを嫌いになっても、それは、自分の過去を否定するようなことでつらかった。これまで自分に優しくしてくれた人たちを、否定したくはなかったから」
◆ゆのみんの湯気が、ふっと細くなる
そのときだった。
ふわりと立ちのぼっていた湯気が、いつもより細く、少しだけ弱々しく揺れた。
「……あれ?」
花柄のお皿が心配そうに覗き込む。
「ゆのみんさん、疲れてませんか?」
ゆのみんは小さな笑みを返した。
「うん、大丈夫。こうやってみんなと話せる時間が、何より嬉しい」
しかし、ゆのみん自身がその変化を、一番はっきり感じていた。
――湯気が、前より軽くなっている。
――体の奥の『火』が、ゆっくり静まりつつある。
そんな感覚が、確かにあった。
けれどゆのみんはまだ、その事実に触れようとはしなかった。
触れたら、もう、この時間が終わってしまう気がしたから。
『ゆのみんさん……もうひとつ、いいですか?』
別の若い器が、遠慮がちに手をあげる。
「あの……『欠けたことって、後悔していますか?』」
ゆのみんはハッとして考え込んだ。
「……後悔、ねえ」
静かに、ゆっくりと言葉を探す。
「もし欠けなかったら、ずっとお世話になった家族と一緒にいられたかもしれない」
「もし欠けなかったら、追い出されることも、ひとりになることもなかった」
少し、目を伏せた。
「でもね……もし欠けなかったら、わたしは『帰る場所のあたたかさ』を知らずに終わってしまったとも思う」
ひろばの器たちは息をのむ。
ゆのみんの声が、ほんの少しだけ震える。
「欠けなかったら……つぼるんにも、つぎっぴーにも、もう一度会えなかったかもしれない」
ゆっくりと顔を上げる。
「どんな結果が正解・間違いということもない。だから……、今の人生に、後悔は……ないよ」
「欠けたおかげで、本当に大切なものが見えたから」
湯気が、弱々しいのに、とても美しくゆれた。
◆その瞬間――ひとがまの奥で、かすかな音がした
「……?」
ゆのみんが顔を向ける。
ひとがまの奥から、かすかに聞こえた『パチリ』という音。
陶が焼けるときの、あの小さな小さな音。
しかし、その音は――
火が消える前の、最後の呼吸のようにも聞こえた。
ゆのみんは、胸の奥に静かな予感が生まれるのを感じた。
「……もうすぐ、時間だね」
その言葉は、誰にも聞こえないほどの小ささで湯気に溶けていった。
「でも……また明日話そう。最後まで、思う存分に、がんばってみたいから」
若い器たちは頷いた。
それぞれの器が、ゆのみんの方へ少しずつ寄っていく。
その光景は、まるで――昔、つぼるんやつぎっぴーがゆのみんのまわりに座っていた日の再現のようだった。
ゆのみんの器の内側で、小さな温度があたたかく灯った。
あぁ。
わたしの物語は、まだ続いているんだ。
どうにか最後のエンディングまで、描き切りたいなあ。
そう感じたゆのみんの湯気には、静かに消えゆく前の優しい光が集まっていた。