第98話「最後の旅支度」
その夜、湯気のひろばが静かになったあと。
ゆのみんは、ひとり、『ひとがま』の裏庭へ出た。
山あいの風がやわらかく吹き抜け、木々の影が地面に揺れていた。
ゆのみんの湯気は、いつもより淡く、細かった。
でも、その揺れ方には迷いがなかった。
まるで、『これがわたしの歩く道だ』と静かに導いてくれているようだった。
◆ひとりきりの夜の散歩
ゆのみんは、ぽて、ぽて、と短い足でゆっくり歩く。
『ひとがま』の壁に手を当てると、ほんのりと土のあたたかさが残っていた。
「……陶じい。わたし、ちゃんと立派な器になれたのかな」
誰に聞かせるでもなく、ゆのみんはつぶやいた。
土の壁は何も言わない。
けれど、そこにはふしぎな安心があった。
まるで、『焦らんでええ』『何事も大器晩成じゃ』と昔と同じように語りかけてくるようだった。
「焦らないよ。もう、焦らない。大器晩成だもんね」
ゆのみんは微笑んだ。
◆身体の変化
歩いていると、ふと足元でふらついた。
「……あ」
ゆのみんは慌てて踏ん張るが、いつもより重心が取りづらい。
湯気が、細く、揺れた。
(あぁ……やっぱり。わたしの『火』、もう小さくなってるんだ……)
痛みも苦しさもない。
ただ、静かに、静かに、火が眠りにつこうとしているだけ。
それに気づいた瞬間も、ゆのみんは不思議なほど怖くなかった。
むしろ、『やっとわかった』ような小さな安心すらあった。
◆三日月の下で
裏庭の大きな石に腰かけると、空には細い三日月がかかっていた。
ゆのみんはその光を眺めながら、そっと目を閉じた。
すると――風の奥から、かすかな声が聞こえた気がした。
「とりあえずやってみよう!」という、つぎっぴーの声。
「それって、本当に自分の言葉かな?」という、つぼるんの声。
「焦らんでええ。大器晩成じゃ」という、陶じいの声。
「……みんな……」
胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
(あぁ。わたしのなかに、こんなにたくさんの声が、言葉が残っているんだ……)
ふと、ゆのみんは自分の内側を覗くように、そっと息を吸った。
――器の内側には、いままで見えなかった小さな金色の光がぽうっと灯っていた。
それは、つぎっぴーがよく見せていた金継ぎの光にどこか似ていた。
「……これ、なんだろう」
けれど、理由はすぐにわかった。
それは、ゆのみんの人生で『つながったすべて』が、少しずつ金色になっていく光だった。
傷ついたところ、あたためてもらったところ、誰かを許したところ、許されたところ
――それらが全部、ひとつずつ『線』になり、ゆのみんの内側に金色を描いていた。
「……つぎっぴーみたいだね。わたしも、いつの間にか……つながってたんだ」
自然と胸の奥があたたかくなった。
◆最後の旅支度
ゆのみんは立ち上がり、ふわりと湯気をはらった。
(もうすぐ、旅に出るんだ。その前に、ちゃんと整えておきたいことがある)
それは、『遺す』というより――『旅立つ前の片づけ』に近かった。
古いひびの掃除。底の小さな汚れをそっと洗う。ゆのみんの内側を照らす金色の線を、ゆっくり撫でる。
湯気は細い。足は少し震える。
でも、ゆのみんの顔には、とても穏やかな表情があった。
「……こんなに静かに、わたしの器を整えられる日が来るなんて……若い頃のわたしは想像もしなかったな」
ひとつ、深呼吸をした。
(つぎっぴー。つぼるん。陶じい)
(わたしも……もうすぐ、そっちに行くからね)
ゆのみんは、そっと部屋へ帰った。
ひとがまの温度は、ゆのみんの体温より少し高いくらい。
「……ここでいい。いや、最後は、ここがいい」
そのつぶやきは、月の光に溶けた。
そしてゆのみんは、自分の器の内側で小さな火が眠る音をはじめて聞いた気がした。
――チリ……
――チリチリ……
ただ、それは、『終わりの音』ではなく『始まりの音』のようでもあった。
ゆのみんは、その音を胸に抱いたまま、静かに深い眠りについた。