「器」という言葉は、単に物理的な道具としての意味だけでなく、人の在り方や成長、精神的な広がりを示す哲学的な概念として捉えることができます。
古代から現代に至るまで、多くの文化や思想に影響を与えてきた「器」の概念をたどっていくと、その源流には老子の哲学があることがわかりました。
今回の記事では『老子』の中で、どのように「器」という言葉が用いられていたのかを考察していきたいと思います。
老子とは何者か?
老子(ろうし)は、紀元前6世紀から5世紀ごろの春秋戦国時代に活躍したとされる中国の思想家であり、道家思想の祖と位置づけられています。
『老子』(または『老子道徳経』)を著した人物とされますが、その実在性や単独の人物かどうかについては古くから議論の的で、複数の思想家の考えが「老子」という名のもとにまとめられた可能性も指摘されています。
老子の思想は、後に荘子などをはじめとする道家の哲学に大きな影響を与えました。その影響は儒教や仏教のみならず、日本、朝鮮半島、さらには欧米にも及んでいます。
『老子』は全81章から構成され、前半を「道経」(第1章~第37章)、後半を「徳経」(第38章~第81章)に分けることが多いようです。
ただし、『老子』のテキストおよび解釈も一つではない点に注意が必要です。
現在見つかっているものはあくまで写本で、歴史を経て都度、内容がバージョンアップされていったという説が有力です。
(※以下、章番号は、安冨(2017)に基づいて記載します)
老子の思想の特徴(第1章の視点から)
老子の思想の中核には、「道(タオ)」と呼ばれる動的な世界観があります。
「道」は万物の根源でありながら、目に見える形ではなく、定義することのできない原理です。
『老子』第1章では、「道は言葉で説明しきれない」と説かれています。
道の道とすべきは、恒の道にあらず。
名の名とすべきは、恒の名にあらず。
無は天地の始まりなり。有は万物の母なり。
道はあらゆるものを包含しつつも、固定された概念(名)としては定義できない存在と言えます。
これは、以前の記事でも触れたように、「器」の概念の本質と重なります。
器は空(無)の部分こそ重要であり、道もまた形を持たないからこそ、万物を生み出す力を備えていると考えられるのです。
また、老子は、人間が対象を理解するために「名」を与えることで、かえってその本質を見失う危険性を指摘します。
言い換えれば、「無(空)」が宇宙の根源であり、「有(名)」はそこから派生したものにすぎないという考え方です。
ここから、老子が「変化し続ける流れ」に本質を見い出していることがうかがえます。
『老子』における「器」の多層的な意味
以下、『老子』の中で「器」という言葉が用いられている6つの章を見ていきます。
① 器は「形」よりも「空間」が大切(第11章)
土をこねて器をつくる。その無に当たりて、器の用あり。
第1章で述べたことと同じく、器が機能するのは、その内側の空間(無)があるからこそであると述べています。
形(有)にとらわれるのではなく、「空(無)」をこそ重視すべきだという考えは、器にも当てはまります。
② 兵=戦いは不吉な器(第31章)
兵は不祥の器、君子の器にあらず
兵も「器」であることに変わりありませんが、これは不吉なものであり、君子が用いるべきではないと指摘しています。
現代語訳のテキストによっては、兵器=戦いの道具と訳しているものもありますが、器=道具という捉え方は偏狭な解釈ではないかと考えます。
先述のとおり、器=道具と捉えてしまうと、単に形のあるものを意味することになります。
ここでは、むしろ器=目に見えない心の在り方と捉えることによって、より理解を深めることができるのではないでしょうか。
すると、「兵(=戦い)は不吉な心の在り方の現れであり、君子(=徳のある者)の心の在り方ではない」と理解できます。
③ 器は死ぬまで成長し続ける(第41章)
大器は晩成し、大音(たいおん)は希声、大象(たいしょう)は形無し。
この一節は「真に大きな器ほど完成せず、大きな音ほど聞きとれず、大きな象形ほど形にするのが難しい」という矛盾した状況を説明していると理解できます。
大器晩成の一般的な解釈として、「大きな器は完成するのに時間がかかる、だから気にするな」と言われることがあります。
しかし、『老子』の帛書(はくしょ)と呼ばれるテキストでは、晩成(ゆっくり)ではなく免成(完成しない)と書かれていたようです。
すると、「本当に偉大な人物は、死ぬまで成長し続けるので、完成するということがない」となり、プロセスを重視する老子の人間観を捉えることができます。
④ 人は「器」として成長し、他者を包み込む(第51章)
道これを生じ、徳これを蓄(やしな)い、物これを形づくり、器これを成す。
(※この節の「器」という言葉は、「勢」と書くテキストもあるようです)
この章は、深遠なる徳(玄徳)について説明しており、万物は道によって生じ、徳がそれを養い、物(=人物)がそれを形作り(=育てる)、やがて人としての器が完成すると述べています。
現代語訳のテキストによっては「器=機能」と説明するものもありますが、個人的には、器を単なる「機能」に還元できないと考えます。
続くテキストを読むと、そのことがより深くわかります。
故に道これを生じ、徳これを蓄い、これを長じこれを育て、これを亭(かた)め、これを毒(あつく)し、これを養いこれを覆う。
上述の一節と対比していると考えて読むと、器を固めて厚くし(=丈夫な器をつくり)、その器を用いて(他者を)養い包み込むことこそが深遠なる徳(玄徳)である、と解釈されます。
⑤ 本来の純朴な状態によって器はつくられる(第28章)
常の徳は、すなわち足りて、樸(ぼく)に復帰す。
樸散ずれば、すなわち器となる
聖人はこれを用いて、則ち官の長となす。故に大制は割かず。
この章も解釈が難しいところですが、ここまで述べてきたとおり、器を単なる道具や製品と捉えると、浅い解釈で終わってしまいかねません。
まず、徳が満ち足りたとき、樸(あらぎ=本来の純粋な赤ん坊の姿という解釈もある)な状態に帰ると指摘しています。
素直に読めば、本来の純朴な状態(=樸)のまま解き放たれることで、一人ひとりの(オリジナルの)器がつくられると理解できます。
そして、聖人はこの器を見て、官(国家)の長に任命します。
ゆえに、画一的な制度(=立場や役割の固定化)によって(器=本来の純朴な状態をむやみに)さばいたりしないと解されます。
ここから、画一的な制度でさばくのではなく、徳を養って現れる本来の純朴な器を見つめることの重要性を述べているのではないかと考えられます。
⑥ リーダーの条件=器の大きさ(第67章)
あえて天下の先とならざるが故に、よく器の長を成す
器の長とは、あえて前に出ようとせず、むしろ下に身を置くことで周囲を支える存在だと説かれています。
ここでの「器の長」という言い回しは、先ほどの第28章で見た「官の長」という言い回しと対応していると考えられます。
つまり、官(国家、組織)の長のように、人の上に立つ者にふさわしい条件としては、やはり器が重要で、(その器を用いて)周囲を支えることの大切さを説明していると考えられます。
まとめ
『老子』における「器」という言葉は、物理的な器の範囲を超えて、哲学的な深みを持つ概念として展開されています。
主なポイントを振り返ると、以下のようになります。
- 老子思想の根幹は、動的な世界観で、道は空(無)、名は色(有)と捉えている(第1章)
- 器は「無(空間)」があることで用いることができる。有(形)ばかりを求めるな(第11章)
- 器=人のあり方として、戦いは不吉なあり方である(第31章)
- 器づくりは一生続くプロセスであり、死ぬまで完成しない(第41章)
- しっかりと器を育てて、他者を包み込むことが深遠なる徳である(第51章)
- 徳が満ち足りて、純粋なまま解き放たれることで器はつくられる。画一的な制度でさばくことなかれ(第28章)
- 真のリーダーはあえて先頭に立たずに周囲を支える。彼らは、器を見出されて選ばれる(第67章)
老子が述べる器の思想は、現代社会においても重要な示唆に富む考え方ではないでしょうか。
組織づくりや個人の成長を考える際も、形だけでなく「余白」や「受け入れる力」に焦点を当てることが大切で、それがより大きな器を育む鍵になると言えます。
老子の言葉を心に留めておくと、日々の生活においても、もっと自身の器を大切にできるかもしれませんね。
参考文献:
安冨 歩(2017)『老子の教え あるがままに生きる』ディスカヴァー・トゥエンティワン
湯浅 邦弘(2014)『入門 老荘思想』ちくま新書
守屋 洋(1988)『新釈 老子』PHP文庫
金谷 治(1997)『老子: 無知無欲のすすめ』講談社