第94話「ひとりでいるということ」
ひとがまの朝。
窯の煙は細くのぼり、風は初夏へと移るような匂いを運んでいた。
今日は、『器物語』(いれものがたり)の会がない日だった。
ゆのみんは、ぽてぽてと庭を歩きながら、自分の湯気の『かたち』を観察していた。
形のはっきりした湯気ではない。
ふわふわとして、つかまえようとすると指の隙間から逃げてしまう。
「……こうして見ると、不思議だよね」
誰に言うでもなく、つぶやきがこぼれる。
「わたしの湯気って、その日の気分や、話した人の言葉で全然変わるんだね」
ふわり、と広がる湯気。
「今日は……静かだなぁ」
ひとがまの裏山には、古い栗の木が一本立っている。
陶じいがまだ若かったころに植えた木だと聞いた。
ゆのみんはその木の根元に腰を下ろした。
湯気が風に乗って、木にそっと触れる。
「ここ、つぼるんがよく来てたなぁ……」
ふと顔を上げる。
栗の木の影の形が、少しだけ壺のフォルムに見えて、胸の奥がじんとした。
――それって、ほんとうに自分の言葉かな?
「あ……」
声が、風といっしょにすり抜けた。
つぼるんの声ではない。
でも、たしかに『あの感じ』がする。
問いかけるような、でも押しつけない、あの静かな響き。
「うん……わたし、いまの気持ち……ちゃんと、自分の言葉で話しているよ」
湯気がぽつんと跳ねたように揺れた。
しばらくして、ゆのみんは裏庭にある古いベンチに移動した。
そこは陶じいのお気に入りの場所だった。
ゆのみんは、目を閉じて深く息を吸った。
土の匂い。木の葉のすれる音。遠くの川のせせらぎ。
音のない静けさとは違う。
小さな音だけで満たされた静けさだった。
「ひとりでいるって……本当は、こんなにいろんな音があったんだね」
――焦るでないぞ。何事も大器晩成じゃ。
陶じいの声が、鼓膜ではなく、心の奥で響いた。
「……焦ってないよ。ちゃんと、じっくり器を作り続けているよ」
目を開けると、ベンチの影が、ほんのかすかに陶じいの丸い姿と重なった。
もちろん気のせいだ。
だけど、その『気のせい』は、あたたかくて、やさしかった。
午後、ゆのみんは縁側に戻り、ぽつんと座った。
湯気が広がって、ひとがまの空気にふれる。
「ねぇ……ひとりって、悪くないね」
声に返事はない。
けれど湯気の前で、風がそっと揺れた。
「たしかに、すこしさびしいよ。でも……さびしさって、『空っぽ』じゃないんだね」
ゆっくりと湯気が膨らんでいく。
「さびしさの中には、昔の思い出がいっぱい入ってた」
陶じいの笑い声。つぎっぴーの金線。つぼるんの問いかけ。みんなとの日々の残り香。
「わたし、いま、ひとりでいても、みんなと一緒にいるみたいなんだ」
湯気は、まるで肯定するようにふわっと揺れた。
その夜、ゆのみんはひろばの真ん中で静かに座っていた。
火を焚くでもなく、灯りをつけるでもなく。
ただ暗がりの中で、自分の湯気だけが淡く光っている。
その光は、大きくも小さくもない。
ただ『そこにある』だけの光だった。
「……ひとりでいると、こんなにもみんなの声が聞こえるんだね」
――とりあえずやってみよう!
つぎっぴーの声が、どこかで笑いながら跳ねた。
「うん……やってみる。明日も『器物語』をひらくよ。生きている限り、ひらき続けるよ。つぎっぴーのように、わたしも最期まで光っていたいんだ」
湯気はゆっくりと天井へ立ちのぼり、夜のひとがまに淡い光の帯を残した。
孤独はもう、恐れるものではなかった。
ゆのみんの中で、孤独は『静かに寄り添う友だち』になりつつあった。