第40話「知の沈没」
つぎっぴーが〈ひとがま〉に戻ってきた数日後、つぎっぴーは意志を灯したまま、海外に旅立っていった。
まるで嵐が去ったかのように、〈ひとがま〉は穏やかな静寂に包まれた。
ゆのみんの湯気にも、ようやく安定した温度が戻りつつあった。
だが、土間の奥で資料の束を抱えているつぼるんだけは、どこか『別の温度』をまとっていた。
ゆのみんが声をかけた。
「つぼるん、忙しそうだね……?」
つぼるんは微笑んだ。
「うん。まあ、いつも通りだよ」
その声は穏やかすぎて、『声の奥』に微かなきしみがあったことに、ゆのみんは気づかなかった。
◆ ◆ ◆
◆つぼるん、職場へ戻る
地域センターの会議室には、今日も大量の資料が積まれていた。
つぼるんの上司が言った。
「この地域フォーラムの企画、お前がメインでまとめてくれ」
つぼるんは頭を下げた。
「はい。承知しました」
形式としては丁寧な返事。
ただ、その瞳はどこか遠かった。
(……ぼくが、また……? みんな忙しいのはわかるけど……これ、今年で三つ目の大型企画だ。)
(誰かに頼りたいけど……頼られた方が楽、なんだよね……ぼくの場合は。)
その瞬間、胸の奥で小さく『パキリ』と音がした気がした。
それは――『知の器』がきしむ音だった。
◆午後、住民からの『重い相談』
カウンターに来たのは、初老の女性だった。
「つぼるんさん……私、最近すごく孤独で……このセンターに来ても、みんな忙しそうで、誰とも話せなくて……」
つぼるんは丁寧に耳を傾け、行政サービスやイベントの案内を説明した。
女性はうつむいて言った。
「……ごめんなさい。よくわからないわ。私の頭が悪いのよね……」
つぼるんは慌てて首を振った。
「いえ、そんなことはありません。ただ……うまく説明できなかったかもしれません。すみません」
女性は涙ぐんだまま帰っていった。
つぼるんはその背中を見つめていた。
……ぼく……何もできていない……?
胸に、じわりと冷たい土が入り込んだ。
◆夜の帰り道、つぼるんは歩きながら考えた
街灯の光が陶肌に反射していた。
ぼくは『考えること』なら得意だ。仕組みを理解して、整えて、説明することもできる。
でも……人の『心』に対しては……どうすればいいのかわからない。
ゆのみんみたいに寄り添えない。つぎっぴーみたいに前を向かせられない。
ぼくにあるのは『知の器』だけ。だけど……その器が今、きしんでいる。
つぼるんは歩みを止めた。
ぼくは……本当に……誰の役に立っているのだろうか……?
夜風がふっと吹いた。
陶肌の表面に、一筋の冷気が走った。
◆〈ひとがま〉に戻ると、火だけが灯っていた
土間には誰もいなかった。
ただ、窯の奥で、陶じいだけが火を見つめていた。
「……すえじい」
つぼるんの声は、少しだけ掠れていた。
陶じいは言った。
「無理しとるな」
つぼるんは黙り込んだ。
否定もできず、肯定もできず、ただ胸が重い。
陶じいは火箸で火をかき混ぜながら続けた。
「知はな、深みに沈むと火が通らん」
つぼるんは目を伏せた。
「……沈んでる、って……わかりますか?」
「わかる。おまえの土の匂いが、少し冷えとる」
つぼるんの胸がチクリと痛んだ。
……気づかれてたんだ。
◆陶じいのアドバイス
「沈んだらな、いったん底まで沈みきれ。そして、底に触れたタイミングで、それをバネにして、また『浮かび直せ』ばええ」
「浮かび……直す……?」
陶じいは頷いた。
「知の器はな、沈むことも必要なんじゃ。ただし……沈みっぱなしでは、いつか壊れる」
「浮かぶための火は、〈ひとがま〉にある」
火が『パチン』と弾けた。
つぼるんはその音を聞きながら、静かに息を吐いた。
……ぼく……沈んでるんだ。
沈んで、沈んで……浮かぶタイミングを見失っていたんだ。
ゆっくり目を閉じると、胸の奥の土がわずかに暖まった。
まだ薄い。
まだ弱い。
でも確かに、火が通りかけていた。
◆夜更け、つぼるんは土間でひとり考える
……ゆのみん、つぎっぴー、ふたりも、それぞれの『器の壁』にぶつかっていた。
じゃあ……ぼくも、ぼくの壁にぶつかるだけだ。
逃げずに……いまの自分を、ちゃんと見つめよう。
胸の奥から、小さな熱が立ち上がった。
つぼるんはその熱に手を当て、小さくつぶやいた。
「……明日も、行こう」
その声は弱かったが、たしかに『浮かび直す』方向へ向かっていた。