第41話「人を救えない空虚」
翌日の地域センターは、いつになくざわついていた。
昼前、つぼるんのデスクに電話が入った。
上司が言った。
「つぼるん、相談室に来てくれ。例の女性が、また来られている」
つぼるんの胸がきゅっと縮まった。
……また……あの方。
つぼるんはゆっくり立ち上がり、相談室へ向かった。
◆相談室には、あの日の女性がいた
初老の女性は、前よりもやつれた表情で椅子に座っていた。
目の下には深い影。
「……つぼるんさん……また、来てしまって……」
つぼるんは席に座り、柔らかい声で言った。
「大丈夫です。どうされましたか?」
女性は震える声で話し始めた。
「……家にいても、誰も話す相手がいなくて……夜になると、怖くなるの。『このまま消えてもいいんじゃないか』って……そんな気持ちがしてしまうの……」
つぼるんは喉がひりつくのを感じた。
これは……行政の対応では追いつかない。制度上できることは限られている。
つぼるんはゆっくり説明した。
「もしよければ、医療機関や……専門の支援につなぐこともできます」
女性はかすかに首を振った。
「……そんな場所に行けるほど、私は強くないのよ……」
「ただ……あなたと話したかっただけなの……」
つぼるんの胸が、ぎゅうっと押しつぶされた。
◆上司の介入
そこへノックがあった。
「つぼるん、いいか?」
上司が顔を出した。
「彼女の件だが……このセンターでできる範囲を超えている。医療につなぐしかない」
つぼるんは小さく頷いた。
しかし女性は、必死に上司に訴えた。
「そんな……! 医者に行けと言われても……私には行けないの……!」
上司は淡々と続けた。
「我々は専門家ではない。責任を取れる立場でもない。つぼるん、君もわかっているだろう?」
つぼるんの胸に、鋭い痛みが走った。
……わかっている。わかっているけど……彼女は『ぼく』を頼ってくれている……
女性は泣きながら言った。
「つぼるんさん! 置いていかないで……! ただ話を聴いてほしいだけなの……」
つぼるんの指が震えた。
……これ以上、ぼくは……なにも……できない。
◆「あなたは優しい」と言われた日
その後、女性は医療支援につながれることになった。
別れ際、つぼるんは「すみません、何もできなくて……」と女性に声をかけた。
女性はつぼるんに小さくつぶやいた。
「ううん、ただ、そばにいてくれるだけでよかったの。……あなたは優しい。だから、余計に苦しくなるのね……」
その瞬間、つぼるんの内側で何かが崩れた。
優しい……? 違う……違うよ……ぼくは、ただ……本当に『何もできなかった』だけだ……
女性が去ったあと、相談室は静かすぎるほど静かだった。
つぼるんは椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
ぼくの『知』は……人を救えなかった。
ぼくの洞察も……丁寧な説明も……制度の壁の前では意味がない。
ぼくは……本当に……役に立っているのか……?
胸の奥で、『ごり……』と音がした。
『知の器』が、深いところでひび割れた音だった。
◆その夜、〈ひとがま〉へ帰る
石段を上る足取りは重かった。
つぎっぴーが帰ってきたときと同じ道。
ゆのみんが枯れそうだったときと同じ道。
……ぼくも、限界なんだろうか……
〈ひとがま〉の戸を開けると、陶じいが火を見ていた。
「……すえじい」
つぼるんの声は弱かった。
陶じいは言った。
「おかえり」
つぼるんはその言葉に、胸がじわっと熱くなった。
「……ぼく、今日も……人を……救えなかった」
陶じいは火箸を静かに置いた。
「つぼるん。人を『救う』んは、器の仕事やない」
つぼるんは目を見開いた。
陶じいは続けた。
「器の仕事はな、『受け止める場所』を作ることじゃ」
「救おうとして深みに沈むと、いずれ、おまえの器が割れてしまう」
「受け止めるだけでええ。火は……向こうが自分でつける」
つぼるんの胸に、小さな熱がゆっくり灯った。
◆火の前で、つぼるんは泣いた
静かに寄ってきたゆのみんが、やさしく湯気を揺らした。
「つぼるん、今日は……きっと、沈む日だったんだよ」
つぼるんは堪えきれず、手で顔を覆った。
涙が『ぽたり』と土間の土に落ちた。
……ぼく……本当に……沈んでいたんだ……
でも……ここまで沈んだなら……浮かべる気がする……
陶じいは火を見つめながら言った。
「沈んだら浮かび直せばええ。それでええんじゃ」
火が『パチン』と跳ねた。
つぼるんは涙を拭いて、かすかに微笑んだ。
「……うん。明日、もう一度……行くよ。行ってみる」
その声は弱かったが、確かに知の底から浮かび始めていた。