第50話「迷いこそが知」
公共施設の相談窓口は、早朝からざわざわしていた。
職員の数は足りず、市民の列は伸び続けていた。
つぼるんは、窓口の端で静かにその光景を見つめていた。
今日も……重たくなりそうだ……
陶肌の奥で小さな鈍い音が鳴った。
◆市民の怒りと若手の混乱
怒鳴り声が聞こえた。
「なんで申請が通らないんだ! 生活がかかってるんだぞ!」
「ですから……規定では……」
「規定、規定って……人の生活より規定が大事か!」
若手職員の顔が引きつった。
つぼるんはその様子に胸がざわめいた。
若いころのぼくなら……『制度の正しさ』を冷静に説明できた……
でも今のぼくは……目の前の怒りと、若手の不安を、ただ見ているだけだ……
陶肌がきしんだ。
正しさは……本当に人を幸せにするんだろうか……?
◆上司からの圧力
午後、つぼるんは管理職の会議室に呼ばれた。
「つぼるん君、最近、現場での判断が遅いように見える」
「……はい」
「制度の運用に迷いを持つのは構わんが、行政は『正確さ』が命だ。君の迷いが、現場の若い人たちに伝染してしまう」
……迷いは『いけないもの』なのか……?
つぼるんは、自分の意見を口に出せなかった。
「若手が混乱しているようだし、しばらく君には『判断業務』を外れてもらう」
「……外れる……?」
上司は淡々と言い、書類に目を落とした。
「一時的な措置だ。また戻ってきてもらうよ」
つぼるんの陶肌が冷えた。
ぼくの知は……信頼されていない……?
ぼくの『正しさの探究』は……足手まとい……?
胸に、深く沈む影が落ちた。
◆帰り道、バスに揺られながら
夕方、つぼるんはバスの座席に座っていた。
景色は流れているのに、頭の中は同じ映像が繰り返してばかりで、気が重くなった。
若いころは……深く考えると救われた。
今は……深く考えると、余計に苦しくなった。
正しさって……なんなんだろう……
陶肌の奥で、『ピシ……』と細い音がした。
あ……
ヒビが入った。
大きくではない。
しかし、消えない。
ぼくの……知が……揺らいでる……
つぼるんは窓に映る自分を見た。
いつもは落ち着いた藍色の表面が、今日はかすかに濁って見えた。
◆夜、〈ひとがま〉に着く
土間の灯りは、いつも通りやさしく揺れていた。
陶じいが火の前に座っていた。
「……すえじい……」
「おう。今日は、えらい音を立てとったの」
つぼるんは、胸の奥につっかえていた言葉を吐き出した。
「……ぼく……正しさが……分からなくなってきました」
陶じいは、火箸で薪をそっと動かした。
「正しさはな。『ひとつ』じゃない」
「若いころは、ひとつの正しさを追える。じゃが四十からは……『複数の正しさ』がぶつかる」
火がぱちりと跳ねた。
「正しさが分からんときはな……『迷っている自分』を捨てんことじゃ」
「迷いを……捨てない……?」
「そうじゃ。迷いを抱えたまま進むのが、四十の知の『歩き方』じゃよ。焦って手にした正解は、みんな紛い物じゃ」
つぼるんは、ゆっくり息を吸い込んだ。
迷いは間違いじゃない……迷いこそが……ぼくの知なんだ……
胸の奥に、ほんのわずかな灯りが戻った。