第72話「風が運ぶ、第二の春」
春の風が、ひとがまの戸口をそっと押し開けた。
まだ少し冷たさを含んでいるのに、どこか甘い匂いが混じっている。
その風に乗って、ゆのみんの湯気がふわりと揺れた。
「……あ、春の匂いだ」
湯気はゆっくりと広がって、窯の壁に、やわらかい影を落とした。
つぼるんが隣で静かに頷いた。
「風が柔らかい。老いを感じるのに……それが、少しだけ心地いいね」
つぎっぴーも、ふらりと火の前に座った。
「ぼくら、ずっと走ってきたんだよね。でも……こうやって風を浴びてるだけで幸せっていうか、なんか不思議な気持ちになる」
三人の器の表面は、昔よりも少しだけ細かいヒビが増えている。
歩けばギシ、と音が鳴る。湯気の出方は以前よりゆっくり。
でもその衰えが、どれも自然で、味があって、どこか優しかった。
◆1.名のない器が、風に応えた
部屋の中央に置かれた『名のない器』が、突然、かすかな音を立てた。
コト……
「……あれ? 動いた?」
「風に……呼ばれてる?」
風が吹き込むたびに、器の表面に光が揺れ、ほんの少し、丸みが変わるように見える。
「なんか……春が器の中にも入っていくみたいだね」
つぼるんは目を細めた。
「名のない器は……『まだ変わり続けたい』って言ってるのかも」
ゆのみんの湯気が、器にそっと触れた。
「この器、なんだか嬉しそう」
そして気づいた。
あ、わたしたち三人も、まだ変われるってことなのかな。
◆2.また人の声がする
その時――外から、小さな笑い声が聞こえた。
「あれ?ここ煙が出てるよ!なんだろう……温かそう」
ゆのみんの湯気が、風に乗って外へ流れ出していた。
「誰か来たのかしら……?」
「もしかして……湯気が呼んじゃった……?」
扉をそっと開けると、近所の若者が数人、興味深そうにこちらを覗いていた。
「こんにちは。外を歩いてたら、あったかい匂いがして……なんか気になって来ちゃいました」
「……風が、連れてきたんだね」
若者たちはひとがまの中を見回し、目を丸くした。
「ここ……すごく落ち着く場所ですね」
「なんだか……心がゆるむ……」
ゆのみんの湯気は、いつもより少し多めに出ている。
(ああ……わたし、まだやれるんだ。)
◆3.新しい始まりの兆し
つぎっぴーが、名のない器の前に座りながら言った。
「ねえ……ぼくたち、年を取ったけれど……まだ何かできるかもしれないね」
つぼるんがゆっくり頷いた。
「伝えるっていうのはどうだろう。肩書きも、役職もいらない。三人のこれまでを……少しずつ」
「小さな教室……作る?」
ゆのみんの湯気がふわりと広がり、外の若者の足元にそっと触れた。
「あ……なんか、あったかい……」
ゆのみんは笑った。
「じゃあ、明日も来てね」
春風が吹き、名のない器がほんのりと光った。
火は小さい。身体は以前より弱っている。
でも――三人の物語は、まだ、いくつかの春を迎えることができる。
それが、ゆっくりと確信に変わり始めていた。