第92話「ゆのみん、語り部になる」
ひとがまの朝は、いつもより少しだけやわらかかった。
春の光が山の端から差し込み、土の匂いがしっとりと空気に混じっている。
ゆのみんは、湯気をほんのりまといながら、ゆっくりと『湯気のひろば』に向かった。
今日は特別な日だ。
『器物語』(いれものがたり)の初日。
けれど、それを知っているのは――今のところ、ゆのみんだけだった。
ひろばの扉を開ける。
人が集まる気配はまだない。
だが、静けさの中に何かくすぐったい緊張があった。
「……ふぅ。深呼吸、深呼吸」
湯気がふわりと広がる。
「今日は……やってみるよ。誰か来てくれるかな……」
自分の声が、少し震えていた。
器物語とは、参加者が『自分の人生の器』を語り合う会。
しかし、ゆのみんにとって、それは単なるイベントではなかった。
――つぼるんに渡された、深く潜った先にある豊かな『知』。
――つぎっぴーに教わった、傷や痛みを希望に変える『光』。
――陶じいが残した、自分らしい火と帰る場所。
それらを、いま誰かに手渡す番だった。
そんな思いが胸につまって、湯気がちょっとだけ熱くなった。
そして、ひろばもゆっくりとあったまってきた。
「……おはようございます」
声の主は、小さな花柄のお皿。
若いが、どこか疲れたような目をしている。
「あら、来てくれたの?」
「はい……なんだか、ここに来たくて」
ゆのみんは胸がじん、と熱くなった。
――『やってみよう』が始まったんだ。
続けて、角の欠けた茶碗、古い急須、仕事帰りらしいマグカップも入ってくる。
五つ、六つ、七つ。
ゆっくりと席が埋まっていく。
「……みんな、来てくれて、ありがとう」
湯気がふわっと広がり、ひろばが淡い光に包まれた。
円形に座った器たち。
ゆのみんは中央に立ち、深呼吸した。
「えっと……今日は、『器物語』をやってみたいと思ってて」
聴衆の器たちが静かに頷いた。
「ここは……誰の話も、急かさない場所だからね。話したくない日は、話さなくていいし……話したくなったら、いつでも話していい」
ゆのみんの言葉は、湯気のようにやわらかく広がる。
「人の人生ってね、みんな『器』みたいだと思うんだ。大きさも、かたちも、傷も、みんな違っていて……それが、その人らしい物語」
茶碗のひとつが、そっと揺れた。
急須は静かに目を閉じて聞いている。
ゆのみんの湯気が、語るたびに少しずつ明るくなる。
「わたし……最近、ひとりでいることが多かったの。でもね……そのひとりの時間の中で、もっとみんなと『話したいな』って気持ちが芽生えてきて」
視線が集まる。
「だから……今日ここを開いたのは、みんなの物語を聞きたかったからなんだ」
ひろばの空気が、ふわりとひとつになった。
しばらく静寂が続いた。
そのとき――花柄のお皿が、震える声で言った。
「……あの……わたし……ずっと、誰にも言えなかったことがあって……」
ゆのみんの湯気が優しくゆらいだ。
「うん。ゆっくりでいいよ」
「……母が……突然いなくなってしまって……家の中がずっと冷たくて……でも、誰にも言えなくて……」
その声は細くて、今にも消えてしまいそうだった。
ゆのみんはそっと横に座り、寄り添うように湯気を広げた。
「……大丈夫。ここではね、独りじゃない。一緒にあったまりながら、話せばいいの」
湯気の奥で、お皿は泣いた。
声にならない涙だったが、それがひろば全体をやわらかく湿らせていった。
誰も急かさず、誰も否定せず、ただ、湯気と静けさの中で涙が落ちる。
そしてゆのみんは思った。
――あぁ。これが『場をつくる』ってことなんだ。
つぼるんも、つぎっぴーも、陶じいも、ここでなら、きっと微笑んでくれる。
語りはその後も続いた。
老いた急須が語る『若いころの喪失』。
マグカップが語る『仕事の疲れ』。
茶碗が語る『誰にも言えなかった後悔』。
たった一日で、ひろばには十の人生がひらかれた。
ゆのみんはひっそりと胸の内で呟いた。
「……みんな、聞かせてくれてありがとう」
湯気が縁をこえて広がり、まるで部屋全体を抱きしめるようだった。
今日、ゆのみんは確かに『語り部』になった。
いや、語り部というより、『聴き部』になったのかもしれない。
そして、その役割が自分の老いの人生を満たしていく予感がした。
会が終わったあと、参加者たちはそっと頭を下げて帰っていった。
ゆのみんは、ひとり残ったひろばで、湯気をふわりと立ちのぼらせた。
「つぎっぴー……つぼるん……陶じい……わたし、ちゃんとできたよ」
窓の外で、春の風がほんの少しだけ吹いた。
風は返事をしない。
でも、湯気は静かに揺れた。
その揺れはまるで――遠くで三人が、ゆっくりと頷いているようだった。