現代の人事やHR(ヒューマンリソース)では、事業目標を達成するために、人材の採用・育成・配置を通じ、最大限の成果を引き出すことが重視されています。
評価制度、インセンティブ設計、目標管理制度など、さまざまな仕組みを導入し、組織や人材を「コントロール」しようとするのが一般的です。
しかし、それは本当に最良のアプローチなのでしょうか?
人的資源管理(HRM:ヒューマンリソースマネジメント)の概念が輸入されて以降、”戦略的”人的資源管理(SHRM)へとアップデートされ、いまや人的資本経営というワードがトレンドになっています。
その結果、「人」を事業達成のための単なる資源、または資本主義の発想に基づくお金を生み出す資本と捉える傾向が強まり、本来の東洋的な意味合いを持つ「人事」という言葉の本来の意味が薄れてしまっていないかという懸念もあります。
そこで本記事では、古来中国で用いられていた「人事」概念の根本的な位置づけに迫ります。
これを通じ、現代の人事観に対するアンチテーゼとなる示唆を探り、企業の人事部門の皆様に新たな発想のヒントを提供できればと考えています。
古典における「人事」と「天道」の対比
古代中国では、「人事」という言葉は「人間が関わるすべての営み」を意味していました。
政治、社会制度、経済活動、人材登用など、あらゆる作為が「人事」に含まれていたのです。
一方、「人事」と並んで「天道」という言葉も用いられており、「天道」は自然や天命など、人間が抗しがたい大いなる摂理を表していました。
すなわち、「人事」とは、社会的意図をもって人間が行う事柄全般を指し、常に「天道」=自然の道や天命との対比の中で位置付けられていたのです。
〇 老子の立場
紀元前5~6世紀に活躍した老子は、「無為自然」を説いた思想家として知られています。
老子の著作中には、「人事」という言葉がわずか一か所だけ用いられており、以下のように記されています。
「人間の行い(人事)はできるだけ控え、自然(天)の道に沿って治めるべし」(老子・第59章)
ここでの「人事」とは、「人を治めること、すなわち人間社会の営みをつくること」を意味していると考えられます。
老子は、為政者があえて人事を最小限に留め、天(自然)の道に逆らわないことが肝要であると指摘しました。
人間が過度に介入すれば混乱を招くため、人事と天の一体化(無為自然)が理想とされたのです。
〇 管子の立場
一方、老子の少し後の戦国時代に編纂された政治論書『管子』では、「人事」がより実用的な側面で語られています。
政治・経済の運営や人材登用など、多岐にわたる施策が「人事」としてまとめられ、「天道に合致すれば成功し、逆らえば失敗する」という因果が説かれています。
「天の道は、公平無私であるから、どんな疎遠な人間でも親しくさせる。しかし、人の道(人事)は、やり方を誤ると、どんな近くの人間でも恨みが起こる」(管子・形勢篇)
根底にあるのは、やはり「人事と天の道(自然の摂理)との調和」という考え方です。
いかに高度な政策や制度を構築しても、天命や自然の流れに沿わなければ長続きせず、恨みなどの問題を生じさせてしまいます。
「人事を尽くして天命を待つ」の再解釈
『読史管見』(12世紀頃)に記された諺に、「人事を尽くして天命を待つ」というものがあります。
一般的には、できる限りの努力を行った上で、結果は天(自然や運命)に委ねるという意味で用いられています。
すなわち、結果は予測できなくとも、まずは自分にできる最善のことを尽くすという姿勢がこの言葉に凝縮されています。
しかし、老子や管子の説くように、人事が天(自然)と対比し、一体化を理想としている観点から考えると、解釈を少し変える必要があるかもしれません。
この場合の「人事を尽くす」とは、「自分の欲望や功利的な思惑に基づいてやり切る」のではなく、「天(自然)の流れと調和し、必要最小限の行動をとる」ことと捉えられるでしょう。
現代の人事や組織運営において「人事を尽くして天命を待つ」という言葉を使うならば、あらゆる手段を講じて事業達成に導くのではなく、必要最小限の干渉にとどめ、組織や人材が自然に活かされる仕組みを構築するという姿勢こそが、本来の意味での「尽くす」ことなのかもしれません。
そして、予測不能な変化や大きな流れ(天の定め)を受け入れる柔軟さが、「天命を待つ」真意に近いといえるでしょう。
現代の人事(HR)との対比:複雑な仕組みと意図的な操作
一方、現代の人事では、天命としての「結果」すらも合理的に確実に獲得しようとするあまり、「管理」や「制御」の色彩を強めている傾向にあります。
たとえば、
・目標管理制度(MBO)
・MVV(ミッション・ビジョン・バリュー)の浸透
・KPI/KGIによる数値目標の徹底
・コンピテンシー評価や行動評価
・インセンティブ報酬設計
などを通じ、従業員の行動を企業の目的に合わせ、最大のパフォーマンスを引き出す手法が発展してきました。
しかし、制度があまりに複雑化すると、「人を思い通りに動かそうとする操作感」が先行し、かえって従業員のモチベーションを下げ、自由な発想を阻害する懸念もあります。
必要以上に制度を作り込み、社員をただの駒として扱うことは、老子が説いた「無為自然」の精神とは正反対の方向へ向かっていると言えるでしょう。
管子もまた、「人の道(人事)は、やり方を誤れば、どんな近くの人間でも恨みが起こる」と説いています。
すなわち、人の意図や管理が過度に反映された制度は、天道すなわち「自然の理」や「大きな流れ」と乖離し、結果として深刻な問題に結び付くリスクがあるのです。
まとめ
古代中国における「人事」は、政治、経済、社会制度など人間のあらゆる営みを包含し、常に「天(自然や天命)」との一体化が重視されてきました。
老子は「無為自然」を説き、過度な人為介入を慎むことで物事が円滑に進むと述べ、管子もまた「天道に沿った人事」の大切さを強調しています。
こうした「人事」概念の由来を踏まえると、人事とは単に組織の目的達成のための手段ではなく、人間社会の営みを創出するものであり、そこには良し悪しを問わず「人ならでは」の意図が内在していると考えられます。
しかし、今日の人事・HRは、事業達成を最優先とするあまり、様々な仕組みを駆使して人材をコントロールしようとする傾向が見られます。
その結果、たとえば、複雑な人事制度の構築や評価項目の増加により、現場がその対応に疲弊している状況が発生してはいないでしょうか。
これは、老子が説いた「人事と天(無為自然)の一体化」に逆行するものと言えます。
ゆえに、人事部には、「人間社会の営みを創出する」という自覚のもとで、人間観の深さ、人との向き合い方、そして器づくり(組織風土変革)の重要性を再認識することが必要です。
社会の変化が激しい時代だからこそ、「人を用いて事業を達成する」という目的合理的な人事観を再考し、ろくろで回る大きな器を扱うように、結果は制御不能・予測不能であったとしても、人間社会の豊かな営みを創り出すプロセスを大事にすることが、現代に求められる新たな人事観になるのではないでしょうか。