2024年は、千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館(歴博)に行き、器の起源に触れることができました。
その後、東京国立博物館(東博)で開催されていた「はにわ展」に行き、その展示の迫力と独特な造形に触れ、埴輪への興味が一層深まりました。
さらに、そこからインスパイアされて、群馬県高崎市にある八幡塚古墳を訪ねてきました。
この一連の旅を通して、私にとって埴輪や古墳、そして「器」という概念について新たな気づきを得られました。
ちなみに、この記事の筆者である私の姓「羽生(はにゅう)」は、もともと「埴生(はにう)」から来ており、埴輪を作る「埴土」を由来としているようです。
それゆえ、埴輪には、遠からぬ縁を感じます。
今回の記事では、埴輪、古墳、そして器にまつわる学びと気づきを、旅の記録として残しておきたいと思います。
器の起源
歴博では、縄文時代から人と器が一体化していたことを知り、衝撃を受けました。
もともと器は、食べ物を入れたり調理をしたりするなど、生活に根差した実用的な道具として用いられていたと考えられます。
しかし、徐々に、器に呪術的な意味が付与されるようになりました。
前回の記事で考察したように、アニミズムの思想では、自然界のあらゆるものに精霊が宿るとされます。
そして人間が生きて死ぬということは、抗えぬ自然の摂理であり、これから生まれてくる命に対しては無事を願い、はかなくも散ってしまった生命に対しては祈りをもって供養する必要性が生じます。
その際、人間の命の起源となる母体が器と似ていると考えられたことにも、どこか共感できるような気がしました。
以前の記事でも書いたように、器とは空(くう)であり、そこに移ろいが生じ、現実(うつつ)が起こります。
生命の再生を願ってつくられた器は、女性の身体の象徴であり、死者を弔うときにも骨を器に入れて埋葬し、こうした儀式を通じて、また新たな生命が誕生すると考えられたのでしょう。
――生命は器から始まり、器に還っていく。
歴史的な視座から器を捉えてみると、なぜ、人を器というメタファーで表現しようとしたのかがより深く理解できるような気がしました。
古墳に並べられた埴輪と器
古墳時代の3世紀から6世紀にかけて埴輪は作られました。
東博で開催された「はにわ展」の最初の展示作品が「踊る人々」の埴輪でした。
この「ゆるさ」が愛らしく人気を集めているようですが、そもそも埴輪は、王(権力者)の墓である古墳に立てられ、そこには神聖な意味があったとされます。
元々は単なる円筒形の容器(円筒埴輪)として作られていたものが、次第に人や動物、家や道具の形を模倣するようになり、やがて埴輪として独自の文化を築き上げていきました。
つまり、もともとは器だったものが、王の役割の変化と連動するように、より複雑な埴輪の形に変化を遂げ、装飾品も豪華になっていったのです。
古墳の周りに並べられた埴輪は単なる装飾品としての役割を超えて、人々が死者を悼み、邪悪なものを防ぐ呪詛的な意味も込められました。
東博で埴輪の展示を見た後、その衝撃から実際に古墳を訪ねたいという気持ちが高まり、群馬県の八幡塚古墳へ足を運びました。
この古墳は6世紀頃に築造された前方後円墳で、復元された埴輪群が壮観でした。
古墳の周囲には多数の埴輪が配置され、その緻密で計算された構図から、当時の人々が抱いていた死生観を感じ取ることができました。
この時代、前方後円墳は誰もがつくれるわけではなく、ヤマトの大王と強いつながりのある王(豪族)だけが古墳をつくることができたとのことです。
そして、古墳の建造には数年から数十年がかけられたとされています。
つまり、王が亡くなる以前から、入念に古墳作りを進め、そこに王の生きた証を再現しようと埴輪群像を並べていたと考えらえます(実際、埴輪の配列には、王を象徴する物語が示されているとのことでした)。
そのように考えてみると、鍵穴型の前方後円墳にも意味があるように感じられました。
そこには様々な説があるようですが、その一つに壺(器)の形をかたどっているという説があるようです。
そして、「器」が「人」のメタファーとして捉えるようになったことを考慮すると、前方後円墳は、実は人の形を意味しているのではないかと思えてきました。
まとめ
古墳の大きさは、そこに眠る王の権力の力の大きさを示していたとされます。
そして、その周りには、大量の器(円筒埴輪)が並べられていました。
円筒埴輪は、もともと飲食物をささげるための土器であったものの、次第に、儀礼空間として古墳を囲む存在へと変貌を遂げていったとされます。
このように考えると、器で囲まれた古墳は神聖な空間であり、そこで死者と生者が交わる祭りが執り行われ、そこでは王を弔い、王の生きた日々を思い出すように再現し、新たな時代の国の安寧を願いが込められていたように思えてきました。
そして、私たちが「器が大きい」という言葉を用いるとき、その原点には、かつて偉大な王がつくった壮大な古墳が存在しているのではないかと考えました。
人々が、何十年もかけて壮大な古墳を建造し、そこに並ぶ器の数が多いほど、誰もが慕う器の大きな王がかつて存在していたことでしょう。
つまり、古墳を囲むように並べられた器や埴輪には、器の大きな王を慕う人々の願いや思いが深く込められていたのではないでしょうか。
今回の旅を通じて、そのように人々を惹きつける王とは、一体どのような人物であったのだろうと想いを巡らせました。
私たち現代人は、古代の器や埴輪から、そのような王の姿を思い出し、かつての王のように、どのように器を磨いていくか、どのように器の大きな人間として生を全うし、死してなお残された人たちとつながっていくか、というメッセージを受け取ることができるのではないでしょうか。