「人の器」と「人としての器」に隠された世界観の違い

総論

「器って、どうやったら測れるんですか?」

このようなお問い合わせをいただくことが増えてきました。

私たちが器の研究を始めた当初は、「測ることが難しいので、測らないほうがいいですよ」と答えていました。

しかし研究を進めるにつれて、「測ることは難しいけれど、測ることも大事ですよね」と考えをあらためるようになりました。

なぜ、このように考えが変わったのか――。

実は「人の器」と「人としての器」という言葉の背後に異なる世界観が隠れていて、この違いを理解することが、器の測定に関する是非を考える前提になります。

先んじて、結論をお伝えすると、これから述べる両者の対比は、「能力を高める世界観」と「関係が育つ世界観」に集約されます。

  • 人の器」は、自分の内側にある能力やキャパシティを成長させることに焦点を当てます。
  • 人としての器」は、自分がいることで他者との間に何が生まれるかに焦点を当てます。

以下の記述では、この対比を複数の角度から見つめていきます。

  • まず、文法構造という切り口から、この違いが日本語にどう表れているかを見ていきます。
  • 次に、上司と部下の具体例を通じて、現場でこの違いがどのように現れるかを考えます。
  • 最後に、「土壌と実り」という比喩を使って、どちらに重心を置くかという問いを深めます。

今回の記事では、上記の議論を通じて、二つの世界観を区別し、なぜその区別が大切なのかを考えていきます。



「の」と「としての」――文法構造が映し出すもの

まず、「人の器」と「人としての器」という言葉の違いから考えてみましょう。

「人の器」は、「名詞+の+名詞」の形です。英語で言えば “of” に近い。

「人の器」は、器が人に属している、人が器を所有していることを示します。

つまり、人の持つ一部分を切り取って「器」という観点から捉えようとしているのです。

ここで語られるのは、その人が持つキャパシティや能力です。

「彼は社長になるには(人の)器が小さい」のように、能力の大きさを描写する文脈で使われます。

一方、「人としての器」は、「名詞+としての+名詞」の形です。英語で言えば “as” に近い。

「人としての器」は、”人”と”器”を同格に置いています。

つまり、人という存在そのものを器として捉えようとしているのです。

ここで語られるのは、人として備えるべき徳や在り方です。

「いくら仕事ができても、”人として”の器が問われる」のように、その人の全体的な意識や姿勢を問う文脈で使われます。

人の器人としての器
文法構造名詞+の+名詞名詞+としての+名詞
英語のイメージof(所有・帰属)as(同格)
捉え方人の一部を切り取って見る人そのものの全体を見る
語られる内容能力・キャパシティ意識・在り方

もちろん、文法の違いだけですべてが決まるわけではありません。

ただ、この言葉の使い分けには、私たちが無意識に前提としている世界観が表れています。



二つの世界観――「能力を高める」か、「関係が育つ」か

文法構造が示唆する違いを、もう少し掘り下げてみます。

「人の器」の世界観では、器は個人が「持っている能力」です。

どれだけ複雑なことを理解できるか、どれだけ多くを抱えられるか、どれだけ影響力を与えられるか――ここでの問いは「自分の能力(器)をいかに成長させるか」です。

ビジネスの場面で「器を広げる」「器が大きいリーダー」と言われるとき、多くはこの世界観の中にあります。

一方、「人としての器」の世界観では、器は関係性の中で「立ち現れる」ものです。

自分がそこにいることで誰かに影響を及ぼし、その誰かが変容することで、また別の誰かに影響が及んでいく。

ここでの問いは「自分の在り方(器)によって、どんな関係が育まれていくか」です。

つまり、前者は「私」の成長を語り、後者は「私たち」の間に生まれるものを語っている――これが、冒頭で述べた「能力を高める世界観」と「関係が育つ世界観」の違いです。


ただし、ここで一つ、補足が必要です。

「人としての器」は関係性の中で現れると言いましたが、それは「個人」ではなく「集団」の話なのでしょうか?

その答えは、実は明確ではありません。

先ほど述べたように「人としての器」は、個人の内側に閉じた性質(能力)ではありません。

しかし同時に、集団という抽象的な存在に回収されるものでもありません。

個人を起点に、個人を越えていくが、個人を消さないものであり――しいて言えば、その中間にある概念です。

なお、「人間の器」という似た表現がありますが、これは集団や組織が持つキャパシティを指します。

たとえば、「この社会・組織はマイノリティを受け入れる(人間の)器がある」といった文脈で用いられます。

したがって、本記事で扱う「人の器」と「人としての器」は、どちらも個人を対象としていることに留意ください(こちらの記事もご参照ください)。



具体例:上司と部下の場面で考える

抽象的な話が続きましたので、具体例で考えてみましょう。

部下が失敗したとき、上司として、どのように向き合えばいいでしょうか。

方策1:介入・操作

よくあるのは、「なぜこんなミスをしたんだ」「次からはこうしろ」という改善のアプローチです。

上司は部下を「修正すべき対象」と見なし、外側からコントロールしようとします。

ここには器の問いはまだ現れていません。

ここにあるのは、自分の正しさを基準に、相手に変わってもらうという構図です。


方策2:支援・伴走

これに対して、「相手が主体的に変わるのを支援する」というアプローチがあります。

「何が起きたのか、聞かせてくれ」「君はどうしたいと思っている?」――というふうに上司は問いかけます。

このとき、上司は、答えは部下の中にあると信じ、部下のプロセスを支える触媒になろうとします。

ここで問われるのが「人の器」です。

感情的にならず、状況を俯瞰し、いかに適切な問いを投げかけられるか。

傾聴のスキル、フィードバックの技術、感情をコントロールする力――対人支援の能力として、上司の器が試されています。


方策3:変容・共鳴

しかし、もう一つ、知っておきたい方策があります。

それは「私が変わることで、私たちの関係が変わる」というアプローチです。

ここでは上司は、部下を変えよう(あるいは、部下に変わってもらおう)とする意図を手放します。

しかし、失敗した部下に向き合いつつも、上司自身の在り方として、自らは変容し続けることを志向します。

失敗した部下を前にして、気まずい沈黙の中にも、急かさずに、じっと側で寄り添い、部下と同じ想いを汲み取ろうとします。

あるいは、部下が自分でもまだ気づいていない本当の想いに、やさしく言葉を投げかけて表出させていき、そのプロセスを通して上司自身も視野を広げていきます。

すると不思議なことが起きます。

上司が自ら変わろうとしていることに共鳴して、部下も自ら動き始めるようになるのです。

この瞬間、二人の間に、新しい関係が生まれます。

ここで問われるのが「人としての器」です。

大切なのは、ともに在り続けられるか、どれだけ真剣に向き合い続けられるかということです。


ポイントは、方策2と方策3は、「そもそも問うている焦点が異なる」ということです。

方策2の支援の「うまさ」を極めた先に、自然に方策3が見えてくるわけではありません。

両者では、立てられている問いそのものが、質的に異なります。

方策2では、「私」が主体となり、「相手」を支援する。

つまり、より良い支援を行うために、能力を高める必要がある。

方策3では、「私たち」が主語となり、関係そのものが変容していく。

能力の高さではなく、意識や在り方の深さ・真摯さが問われる。

もちろん、どちらが正しいということではありません。

しかし、方策2の焦点に留まって成長を志向している限り、方策3で起きることの価値は、一向に見えてきません。


ここで、よくある疑問として、”「人としての器」も、結局は能力ではないか?”という声が挙げられます。

たしかに、そういう見方もできるかもしれません。

沈黙に耐えるのも、相手を急かさないで待つことも、スキルとして可視化したり開発できるでしょう。

ただし、ここで意識を向けたいのは、”それが、どこから発せられていて、どこに向かっているか”です。

「自分を成長させたい」「よりよい成果を出したい」という動機で相手に関わるのと、「何が得られるかわからないが、可能性を広げたい」「結果はわからないが、相手が何かに気づくための余白をつくりたい」という動機で相手に関わるのでは、仮に取っている手法が同じであったとしても、向かっている方向も得られるものも変わってきます。

前者は、結局は自分に返ってくることを前提にしています。

相手のためと言いつつも、根本では自分の利益を志向しているのです。

一方、後者は相手を通じて、その関りの結果としてもたらされたものが、どこかへ流れていきます。

もちろん、結果的にそれが自分の利益になる可能性もありますが、そもそも関係という場が豊かになり、そこに自らが貢献できることが目的であり価値となっているのです。

ただ現実的には、二つの世界観は混じり合い、明確には分けきれないでしょう。

しかし、どちらに重心を置くかで、その後の展開が変わるため、両者の区別が大切になります。



混同すると、何が起きるか――「手段化」という罠

二つの世界観を区別しないまま「器」を語ると、どうなるでしょうか。

多くの場合、「人としての器」が「人の器」の中に吸収されていきます。

言い換えれば、「在り方」が「能力」に取り込まれていくのです。

  • 「傾聴」が、相手を動かすためのテクニックになる
  • 「謙虚さ」が、評価を上げるための戦略になる
  • 「余白を持つこと」が、生産性を高めるためのツールになる

これらは悪いことではありませんし、実際、役に立つこともあります。

しかし、すべてを「能力を高める」枠組みで語ると、何かこぼれ落ちるものがあると思いませんか?

「聴く」ことがスキルとして評価されると、「うまく聴けているか」が気になり始めます。

「謙虚さ」や「余白」が戦略的なテクニックとして扱われると、すべてが「成果を出すこと」に結び付いたかどうかというパラダイムに回収されていきます。

すると、うまくいくこと、成果を出すことばかりが重視されるようになり、それらが仕事の付き合いとして身につけた力として、もてはやされるようになります。

その反作用として、本音やありのままの個性は押し殺され、次第に「この人と一緒にいたい」「この人に聴いてもらえてよかった」という体温のある感覚が失われ、人間関係が乾いた取引になっていきかねません。

この手段化の罠は、他者との関係だけでなく、自分自身との関係にも及びます。

すべての経験を「成長の糧」として回収しようとすると、「生産的でない時間」や「役に立たない自分」を切り捨てざるを得なくなります。

失敗も、迷いも、立ち止まる時間も、すべてが「自分にとって意味あるもの」に変換されなければならないと脅迫的に考えるようになります。

このように「意味の密度」を高めていく圧力は、本来の自分らしさを引き裂いていきます。

「役に立つ自分」と「役に立たない自分」、「有能な自分」と「無能な自分」、「成長している自分」と「停滞している自分」――徐々に前者だけを求め、後者を無意識に否定するようになります。

その結果、自分という器から、弱さやノイズが排除され、気づけば、社会が求める”あるべき姿”に向けて、一見立派だが空疎で個性のない器がつくられてしまうかもしれません。

もちろん、それは高い能力を持つ器として成果を出せるでしょう。

しかし、そこに自分らしさを感じられなければ、どこかで窮屈さを抱え続けてしまいかねません。



どちらに重心を置くか――「土壌」と「実り」の比喩

二つの世界観を区別したうえで、あらためて、どちらに重心を置くかを問い直しましょう。

以下では、「土壌」と「実り」という比喩を使って考えてみます。

実は、「人の器」も「人としての器」も、どちらも土壌を耕しているという点では同じです。

違うのは、”何を期待して耕すか”という意識の置きどころです。

「人の器」に重心を置く耕し方は、確実で明確な実りを求めます。

「この能力を身につければ、こういう成果が出る」「このスキルがあれば、この課題を解決できる」。

どんな実りを得たいかをあらかじめ明確に定めて、計画し、測定し、改善する――予測可能な実りを着実に収穫していくという姿勢です。

この姿勢は、現代のビジネス文脈において大きな価値があります。

組織を効率的に動かし、課題を着実に解決し、目に見える成果を積み上げていくには、こうした明確な姿勢が欠かせません。

一方、「人としての器」に重心を置く耕し方は、不確実だが豊かな実りを期待します。

「何が実るかはわからないけれど、土壌を豊かにしよう」――この考えは、一見すると非効率に見えるかもしれません。

しかし、この姿勢からしか生まれないものが確実にあります。

例えば、予想もしなかった人とのつながりが生まれる。自分が意図していなかった形で、誰かに影響を与え、また誰かから影響を受けていることに気づく。当初の計画では得られなかった、創発的な何かが立ち上がってくる――などです。

人の器人としての器
土壌の耕し方確実で明確な実りを得るために耕す不確実な豊かな実りを期待して耕す
期待する実り予測可能・測定可能予測不能・創発的
強み計画的に成果を積み上げられる想定外のつながりや影響が生まれる

ただし、誤解を避けるために補足しておきくと、不確実な実りを期待するということは、何もしないことでも、責任を手放すことでもありません。

結果を明確にコントロールしようとしないだけで、豊かな土壌をつくるために関わり続ける責任は、むしろ重くなります。

土壌を耕し続けること、そこに居続けること、相手と真剣に向き合い続けること、不確実な現実がもたらす結果を真摯に受け止めること――これらを引き受けるには重たい責任が伴います。

したがって、「不確実さを受け入れる」と「放棄する」はまったく異なるもので、前者は、結果が見えないまま関わり続ける覚悟を持つことであり、後者は、関わること自体をやめてしまうことを意味します。



「人としての器」を重心に置く立場と、その限界

どちらに重心を置くかは、一人ひとりの選択です。

「人の器」を軸にする生き方にも、十分な合理性があります。

ただ、私自身は「人としての器」――不確実な実りを期待する土壌づくり――に重心を置きたいと考えています。

確実な実りを求め続けると、どうしても窮屈になっていく感覚があるからです。

能力は「自分のため」に閉じていき、自分自身も「役に立つ部分」だけに削られていく。

弱さ、迷い、停滞――これらは「成長の妨げ」として無意識に排除され、器は効率的に成長していったとしても、どこか息苦しいものになっていきます。

不確実な実りを期待すれば、この圧力から降りられるのではないでしょうか。

能力は、相手との関係の中で活かされるものになります。

たとえば「広い視野」という能力も、自分の正しさや成長を証明するためではなく、相手の立場から世界を見るために使われる。

能力が自分で閉じずに、どこかへ流れていく。

同時に、弱さも、迷いも、意味のない時間も、自分という器の一部として受け入れられる。

「使える自分」と「使えない自分」を分断せず、まるごとの自分を大切にできる。

他者比較や序列の力学から距離を取り、「まだ足りない」という焦りや自己否定の声を手放すことができる。

他者にも、自分自身にも、開かれた状態でいられること――それが、私が「人としての器」に重心を置きたい理由です。


ただし、この考え方にも限界があります。

不確実な実りは、豊かさをもたらす可能性がありますが、それ自体が成果を保証するわけではありません。

いくら土壌が豊かでも、危機や飢えは起こりえます。

余裕がなく切羽詰まった状況で、日々の課題を解決し、目の前の組織を早急に動かすには、測定可能な能力を高めることも必要です。

「在り方」だけを強調して「能力」を軽視すれば、現実の問題は解決できません。

だからこそ、「人としての器」に重心を置きながらも、「人の器」を疎かにしないという姿勢が大切になります。

これが、冒頭の問いで提示したように、「測ることは難しいけれど、測ることも大事」と考えをあらためた理由です。

整理すると、次のようになります。

測ることが有効なもの:

  • 能力、スキル、行動
  • 主に「人の器」に属する領域

測ることに馴染まないもの:

  • 在り方そのもの、関係の中で生まれる価値
  • 主に「人としての器」に属する領域

ただし、

  • 在り方が「どういう行動として現れたか」は語ることができる
  • 測れないものを大切にしながら、測れる部分を測ることも大切
  • しかし、測ったものが「人としての器」のすべてではないという認識が大前提

「測らない勇気」と「測る責任」の両方が必要で、どちらか一方に偏ると、大切なものがこぼれ落ちていくことになります。



まとめ

本記事では、「人の器」と「人としての器」という二つの世界観を区別しながら検討しました。

両者の違いは、「能力を高める」ことに重心を置くか、「関係が育つ」ことに重心を置くかという、意識の置きどころの違いです。

どちらも土壌を耕しているという点では同じですが、違うのは、確実な実りを求めるか、不確実な豊かさを期待するかという点です。

みなさんが、「器」という言葉を聞いたら、少し立ち止まってみてください。

それは確実な実りを求める話でしょうか。それとも、不確実な豊かさを期待する話でしょうか。

今、あなたが耕している土壌(器)は、どんな実りを期待していますか。

そして、どれほど、その実りを明確に意識しながら器を語っているでしょうか。

自分という器を通じて、どんな現実が生まれ、何がそれに続いていくか――。

その「流れ」の中に身を置くことこそが、「人としての器」を見つめることにほかなりません。


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