「人としての器」の評価をどう考えるか?

総論

成熟度、人間性、人格を示すメタファーとしての「人としての器」――前回の記事で「うつ(空)」の思想に基づいて考察したように、「人としての器」は一言では表せない総合的な概念と言えます。

これまで「人としての器」に関する研究を進める中で、感情の安定性や豊かさ、対人関係での親密さや包容力、思考の広がりや深さ、自己受容や利他性などの観点が、器の構成要素にあることが少しずつわかってきました。

先日、”いれものがたり”にご参加いただいた皆さんと、上記の構成要素について対話を重ねていた中で、「人としての器はどのように評価できるのか?」といった質問をいただきました。

ここでまず立ち止まって考えたいのは、そもそも「人としての器」の大きさを評価することは可能なのか、ということです。

もし評価が可能ならば、その大きさは誰が見ても一致するものでしょうか、それとも評価者によって異なるものでしょうか?

今回は、社会科学の哲学における代表的な3つのパラダイム――実証主義、解釈主義、批判的実在論の視点を手掛かりに、上記の問いを深めていきたいと思います。

実証主義の視点からの評価

まず最初に、20世紀以降の社会科学で中心的なパラダイムである実証主義の視点から考えてみます。

実証主義は、誰が見ても同一の結論となるように客観的に事象を捉えるという思想の下で、具体的な観察や測定の結果から法則や理論を形成することを目指します。

「人としての器」を実証主義的に評価する場合、まず前提として、それが主観を離れて客観的に存在し、目に見える形で観察できると考えます。

このとき仮説検証のための科学的な手続きとして、具体的な行動や発言から、その人の器の大きさを量的データに置き換えて評価する手法が主に用いられます。

例えば、アンケートやチェックリストのような形で「人としての器」の大きさを把握する質問項目を作成し、その程度をポイント化できる尺度を開発し、それを通じて評価・判定するといった方法です。

昨今、ウェルビーイングを例にとってみても、こうした測定尺度は数多く提案されており、皆さんも馴染み深いのではないかと思います。

しかし、数値化できるものが、必ずしも当該概念のすべてをカバーしているわけではないという点に注意が必要です。

実証主義では、普遍的な真理を追い求めるがあまり、その真理が成り立つ条件を事細かに規定し、一般化を目指すがゆえに少数派の視点をないがしろにして単純なモデルを作ってしまうことが起こりえます。

そのため、実証主義が閉鎖的な世界観を前提とした実験室で得られたような特殊な事例を不当に一般化・普遍化しているのではないかという批判も存在します。

したがって、「人としての器」の測定尺度を開発したとしても、それはややもすれば標準化できる表面的な行動や発言を切り取っているにすぎず、当人の深層部分にある価値観や行動の背景にあるダイナミズムを十分に捉えきれていない可能性があることを心に留めておく必要があります。

解釈主義の視点からの評価

次に、解釈主義の視点から考えてみます。解釈主義は実証主義の対極に位置し、現実の複雑さや多面性を捉えようとする哲学的立場です。

解釈主義では、私たち一人ひとりが世の中をどのように解釈しているかが重要で、その解釈の違いやあり方に影響を与えるコンテキストを考慮して、各人の個別性や特殊性を注意深く探索します。

解釈主義的に「人としての器」を評価する場合、対象者の価値観や信念、経験に基づいて行動や言葉を紐解いていくことになります。

方法としては、量的データでは把握しきれない各人の解釈を探るため、インタビューやエスノグラフィーなどの質的な調査手法が主に用いられます。

そして、抽出された厚い記述に対して、批判的な視点で眺めながら複雑な文脈における意味を深めていき、多様な側面の真実を探ることになります。

なお、解釈主義者の立場では、「人としての器」を客観的に把握できるとは考えておらず、調査者(評価者)のふるまいによって、対象者(被評価者)のその後の意識・行動に影響を与えることもあると考えます。

そのため、そのときのコンテクストに応じた、100人100とおりの評価基準がありえます。

それゆえに、評価者の主観が入り込み、公平な評価が困難になるという限界があります。

また、過度の相対主義に陥り、何でもありの状態になってしまう懸念もあります。

その結果、当該概念の評価基準は常に不安定であり、建設的な批判を通じて概念自体が変容していく可能性がないがしろになりかねないことが限界に挙げれます。

批判的実在論の視点からの評価

第三の視点として、実証主義と解釈主義の対立を乗り越えることを目指した批判的実在論が挙げられます。

批判的実在論では、目に見える事象よりも、その背後に存在する目に見えない「構造」が重要であると考えます。

目に見える出来事や事象の背後には必ず構造があり、その構造がもたらす様々な因果的なメカニズムが重なった結果を私たちは知覚しているのです。

批判的実在論では、構造自体は直接目にすることはなく、しかも、構造やメカニズムから影響を受けている事象は不変的に存在しているわけではなく、絶えず変化しているという前提があります。

したがって、その変化を前提としたとき、実証主義者のように、私たちが知覚する傾向や経験を統計的に分析しても決して一般化・理論化することはできず、また、実験室のような制約的な状況を作り出しても、それは複雑に変化する現実社会とは明らかに異なるため、そこから普遍的な法則を見つけ出すことは困難であると考えられます。

それでは、批判的実在論の立場から見ると、どのようにして「人としての器」を評価できるのでしょうか?

このとき、「人としての器」という概念そものもが目に見えない構造であり、その構造がもたらす因果的なメカニズムによって各人の行為や振る舞いが現れていて、私たちはそれを見て器の大きさを評価していると理解することができるでしょう。

その目に見えない構造やメカニズムを探る方法としては、アブダクションやリトロダクションと呼ばれる推論プロセスが重視されます。

簡単に言えば、ある事象の背後にある構造について、その構造があるからこそ当該事象が生成されているという理由を創造的かつ合理的に推論し、その際には既存の理論や経験則を用いた論理的な妥当性も考慮して、できるだけ強固な仮説を生成するという方法になります。

このときには量的手法も質的手法も織り交ぜながら、目に見えない構造に迫っていくことになります。

また批判的実在論では、ある構造を明らかにしても、その先にはまた多層的な構造が存在していると考えるため、それを段々と明らかにしていくプロセスそのものを重視します。

そのプロセスにおいては、評価者と対象者が実際に関わることで生じる相互作用により、対象者や社会全体に変化を与える可能性があることも積極的に肯定します。

言い換えれば、批判的実在論は常にプロセス志向であり、対象者との実践的な関わりを通じて、社会の変容を目指していると言えるでしょう。

このように批判的実在論では、調査対象に関する深い理解を追求しますが、一方で、どこまでいっても完全な構造を理解することは困難であるという限界もあります。

とりわけ、私たちは形あるものや目に見えるものに強く影響を受けて、そこに捉われてしまいがちです。

何らかの真理を明らかにできたと思ったとしても、本当の構造は常に背後に隠れていることを意識しながら、絶えず結果を考察し続けていくという地道な姿勢が重要になります。

まとめ

「人としての器」の大きさを評価する際には、評価者がどの哲学的立場に立脚するかによって、その方法や結果の捉え方が異なると言えます。

実証主義、解釈主義、批判的実在論という3つのレンズから見ることで、「人としての器」をより深く理解することができるでしょう。

このとき、いずれかの視点が最も優れていて絶対的に正しいというものではありません。

それぞれの視点を持つことで、自分自身や他者のことをより深く立体的に見つめることができます。

みなさんは自分自身の「人としての器」や他者の「人としての器」の評価をどのように考えますか?

そして、その評価を健全な形で自己成長や他者の成長支援に活かすにはどうすればいいと思いますか?

様々な視点を踏まえながら「人としての器」の評価について再考し、より深い理解を得ていくための豊かな議論が生まれれば幸いです。

<参考文献>
野村康(2017)「社会科学の考え方」名古屋大学出版会


より詳しく「人としての器」を学びたい方は、金曜の夜は”いれものがたり”にご参加ください。

これまでの研究成果のエッセンスを紹介し、対話形式で理解を深める入門版ワークショップです。

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