私たちが日々直面する悩みや人生の岐路のタイミングでは、人としての“在り方”が問われます。
これまで「人としての器」というキーワードを軸に、その”在り方”を多面的に検討してきました。
そして、いよいよ、ここからは各論に入っていきます。
今回の記事では、「人としての器」を9つの領域に分けた見取り図を提示します。
以前の記事で紹介したように、「感情」「他者への態度」「世界の認知」「自我統合」という4つの領域は、矛盾する二つの方向性が内包されています。
・感情 :自制 ←→ 感性
・他者への態度:受容 ←→ 創発
・世界の認知 :叡智 ←→ 達観
・自我統合 :自己 ←→ 社会
そして、人としての器の成長プロセスは「①変化の影響を蓄積」「②器の限界を認識」「③器の拡大を構想」「④意識・行動を変容」という4つのフェーズ(ARCTモデル)から構成されます。
これらの区分を念頭に、9つの領域を支える主要な研究・理論を俯瞰してとらえていきたいと思います。
感情:自制と感性
(1) 自制
自制とは「自分の感情や行動を自分で制すること。克己」(デジタル大辞泉)と定義されるように、必要な場面で自分の反応をコントロールし、より望ましい方向へ感情を導くことを意味します。
単に感情を抑え込むのではなく、内面に沸き起こる感情をうまく扱えるようになることで、自制の力が高まります。
先行研究では、感情制御(Emotion Regulation)を中心に、レジリエンス(Resilience)、マインドフルネス(Mindfulness)と関連しています。
マインドフルネス訓練(呼吸法など)やレジリエンス研修(自己肯定感を育むプログラム)によって、自制の領域を開発することが可能です。
強い感情(怒り・不安・悲しみなど)に振り回されないことで、メンタルヘルスの向上や対人関係の質を高め、仕事やコミュニティでも安定したパフォーマンスを発揮しやすくなります。
(2) 感性
感性は、「物事を心に深く感じ取る働き。感受性」(デジタル大辞泉)と定義されます。
自制を求めれば求めるほど、その裏側で豊かな感受性や素直な感情表出の大切さも浮き彫りになります。
先行研究では、芸術や自然に触れることによる「美的感情(Aesthetic Emotions)」や、他者との協調を促す「共感(Empathy)」に関連します。
また、ウェルビーイング(Well-being)研究では、ユーダイモニックな観点からポジティブ感情を増幅させる手法も注目されています。
感性を高めるには、芸術・自然体験(コンサート、美術館、自然散策など)、共感トレーニング(ロールプレイや物語創作)、ポジティブ心理学的介入(ポジティブ体験の3行日記など)が有効とされます。
他者への態度:受容と創発
(3) 受容
多様化する社会において、異なる価値観や背景を受容し、協働する姿勢が求められます。
先行研究では、他者に寄り添う「視点取得(Perspective Taking)」、寛容さ(Tolerance)およびその派生概念としての「曖昧さ耐性(Tolerance of Ambiguity)」を高める重要性が指摘されています。
さらには、慈愛(Compassionate love)や思いやり(Compassion)を育むことで、他者との協働が深まり、信頼を土台とした結び付きが促進される可能性が示唆されます。
実践面では、視点取得のワーク(ステークホルダー視点での課題や背景分析)や曖昧さ耐性トレーニング(異文化交流、越境体験など)を通じた開発が考えられます。
(4) 創発
創発は「要素間の相互作用を通じて新たな秩序が形成される現象」(デジタル大辞泉)と定義され、単なる受容にとどまらず、互いに影響し合いながら新たな価値や秩序を生み出す姿勢を重視します。
これを通じて、イノベーションや組織変革の場面で大きな原動力となります。
先行研究では、リーダーシップ理論(変革型・倫理的・サーバント・インクルーシブなど)、エンパワーメント(心理的サポートや権限移譲)、創発的な対話(Dialogue)などが関連します。
リーダーシップを発揮しつつ周囲をエンパワーする経験や、相互に学び合いながら正解のない問いを探求する対話の機会などを通じて、創発の観点を鍛えることができます。
世界の認知:叡智と達観
(5) 叡智
叡智は、「すぐれた知恵。真理を洞察する精神能力」(精選版 日本国語大辞典)を指します。
複雑な課題をどこまで精緻に捉えられるかが行動方針の質を左右するため、叡智の深さが問題解決や組織・社会レベルの意思決定における鍵となります。
関連研究として、階層的認知発達(M. CommonsやK. FischerのStageモデル)、システム思考(Systems Thinking)、弁証法思考(Dialectical Thinking)などが挙げられます。
段階的に抽象度を上げる思考演習や因果ループやシステムダイナミクスを用いた学習、パラドックスやジレンマを扱う弁証法問題への取り組みによって叡智を磨くことができます。
(6) 達観
達観は、「広い視野と大きな見通しを持つこと」(デジタル大辞泉)と定義されます。
深い叡智を得るほど「自分の認識がすべてではない」という達観に基づく認識論的視点が不可欠になります。
先行研究では、知的謙虚さ(Intellectual Humility)やその結実としての実践的智慧(フロネーシス)、メタ認知(Meta-cognition)、認識論的認知(Epistemic Cognition)との関連が想定されます。
自分の思考過程を客観視・調整する振り返りの習慣づけや、知識をどう正当化しているかという認識論的態度を涵養することで、広く大きな見通しを持つ達観が育まれます。
自我統合:自己と社会
(7) 自己
自分にとって大切な価値観を把握し、自分らしさを受け入れながら自己実現を目指すことは、人生の充実感に大きく関わります。
関連研究には、セルフ・コンパッション(Self-Compassion)、成長マインドセット(Growth Mindset)、人生の意味・豊かさ(Meaning in Life, Rich Life)などがあります。
具体的な開発としては、コンパッション・フォーカスト・セラピー(CFT: Compassion-Focused Therapy)の手法、成長マインドセット教育(努力を重視するフィードバック法)、ライフライン分析や「ぐるぐるチャート」を活用した自己理解の促進などが考えられます。
(8) 社会
自己の内面を深めるだけでなく、「社会」への観点も重要です。
個人が社会や他者に貢献することでコミュニティの成熟度も高まります。
とはいえ、「社会」への傾倒が過度になると、自己犠牲やバーンアウトを招くリスクもあるためバランスが大切です。
関連研究には、利他・向社会性(Pro-sociality)、自己超越・畏敬(Awe)を育む方法、さらには道徳・美徳(Moral, Virtue)に関する議論があります。
ボランティアや社会奉仕、畏敬体験(芸術活動や宗教的実践)、道徳的な対話(禅問答)などが実践方法として考えられます。
器の成長:ARCTモデル
(9) 器づくり
人生においては「①変化の影響を蓄積」「②器の限界を認識」「③器の拡大を構想」「④意識・行動を変容」というARCTモデルを何度も繰り返すなかで、新しい器をつくり続けます。
そのプロセスは絶え間なく続き、思うように進まないときは、自分がどのフェーズにいるか確認し、仲間の力も借りながら向き合うべき問いに真摯に取り組むことが大切です。
関連する先行研究として、大人の学習モデルとしての変容的学習(Transformative Learning)は、パラダイムシフトを促す枠組みとして参考になります。
また、器の限界を認識するフェーズでは、心的外傷後成長(Post-Traumatic Growth: PTG)の考え方が示すように、トラウマ経験を変容的学習へと昇華できる可能性もあります。
さらに、エリクソンの心理社会的発達理論は理想的な人生の在り方として、自己と社会の相互関係の統合的な見方を提示します。
具体的な実践としては、ARCTモデルの4つのフェーズを何度も回していくほかありません。
各フェーズや人生の節目で内省を促す対話を行い、限界を認識したタイミングでは専門家や仲間の支援を受けながら器の再構築を図り、次の一歩を踏み出すことが重要です。
まとめ
各領域の最も重要な概念を一言でまとめると次のとおりです。
- 心を整えて感性を養う :幸福(Well-being)
- 多様な他者と響き合う :慈愛(Compassionate Love)
- 広く深く世界を捉える :知恵(Wisdom)
- 人としての在り方を磨く:美徳(Virtue)
- まだ見ぬ器と巡り合う :変容(Transformation)
当然ながら、上述した諸理論は、相互に影響し合います(参考として以前の記事もご覧ください)。
たとえば、感情の自制を養うマインドフルネスが他者受容にも影響を及ぼす一方で、より深い自己認識はセルフ・コンパッションや成長マインドセットにも波及します。
また、ウェルビーイングやマインドフルネスをどの領域に位置づけるかという議論もあるかもしれませんが、概念を分解して眺めることで初めて多元的な統合が可能になり、“人としての器”を支援する実用的フレームワークとして活用できます。
分解と統合はセットであり、分解のない統合は現実感のない上辺だけの理解で終わってしまうでしょう。
今回は各領域を概観するにとどまりましたが、より詳細に関連理論を押さえて、それを活かした実践的ツールを開発していくことで、“器”というメタ概念の実用性や研究エビデンスをさらに蓄積していく必要があります。
「人としての器」を体系的に学ぶことは、変化が激しい時代にあって自分自身を見失わず、多様な他者と協働しながら新しい価値を生み出すための大きなヒントを与えてくれるはずです。
各領域の先行研究が示す知見を活かし、日常や仕事のなかで継続的に意識することで、私たちは自分自身と社会の可能性を少しずつ広げていけるのではないでしょうか。